津田沼教会 牧師のメッセージ
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「再臨の主を待ち望む」(マルコ11:1~11)
マルコ11:1-11、2005・11・27、待降節第1主日(教会暦の色―紫―)
イザヤ書63:15-64:7、コリントの信徒への手紙一1:3-9

マルコによる福音書11章1~11

 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことにない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ホサナ。
 主の名によって来られる方に、
   祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、
   祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


説教「再臨の主を待ち望む」(マルコ11:1~11)渡辺賢次牧師
 
皆さん、今日から教会暦での新しい一年が始まりました。これからの一年は、マルコによる福音書を中心としながら、主イエスがもたらしてくださった福音、良い知らせを聞いていくことになるでしょう。私たちのルーテル教会では、3年サイクルでマタイ、マルコ、ルカの順でA年、B年、C年と福音書が読まれ、今日から始まる教会暦の新年度は、B年にあたっています。そして、その中で時折、ヨハネ福音書から、復活節などにおいて選ばれた個所が、読まれます。3年ごとにほとんど繰り返しで、日曜日の説教を聴くことになります。しかしそれは、残りの聖書の大部分がなおざりにされていいということでは、決してありません。受難節のときも、主の十字架を特に想起していくのでありますが、主の日だけは、せめて、どのような中にありましても、私たちは福音書に典型的に表されている主そのもののお言葉や、なさった働き、良き知らせを聞いて、力づけられ、他の聖書の個所もできるかぎり読みながら、一生の信仰生活を送るようにとの先輩たちの残してくれたものが、教会暦の聖書日課の特に日曜日には福音書が読まれることであるのであります。
 さて、本日のマルコ福音書11章の1節から11節は、エルサレム入城という個所で、四つの福音書はそろって、この出来事を記しているのであります。そして、何と、ルーテル教会ではたいていは、この同じ個所を、非常に節目になるアドベントの第1主日と、受難週にはいる枝の主日に、重要な時に一年に二度にわたって聞くのであります。おそらく同じ一回起こっただけの出来事でありますが、ヨハネ福音書も含めて、それぞれに特徴をもって、この重要な出来事を記しているのであります。今日は、マルコの記事に従って、この出来事の意味についてしばらく皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。
 ちょうど、祭りの巡礼者たちが、大勢、エルサレムの神殿を目指していたころでありましょうか。それが、3月ころの過ぎ越しの祭りであったのか、秋のスコトの祭り、仮小屋の祭りであったのか、さらには、12月の神殿再奉献祭のことであったのか、はよく分かりません。マルコによれば、あとで、過ぎ越しの祭りの用意のころのように書かれていますが、時期に関しては曖昧なところもあります。
 彼らが、エルサレムに、そして、ベトファゲとベタニアへと、近づいたとき、主は二人の弟子を送り出そうとして言われるのであります。「向こうの村へと行きなさい、そうすれば、あなたがたは、まだ誰も乗せたことがない子ろばがつながれているのを見出すだろう。それをほどいて、連れてきなさい」と。向こうの村とはどこなのか、よく分かりません。進行方向から言えば、ベタニアから、エルサレムにより近いベトファゲのことを指していたのでしょうか。ところで、本日の出来事はエルサレム入城と言われるのですが、それは、終わりの日に、エルサレムのオリーブ山に主が立ち、異邦人たちを裁かれるという、ゼカリヤ14:4に預言されていることから、重要視されていたのであります。主イエスはそのことを意識されていたかもしれません。あるいは、後からマルコたち、弟子たちがその出来事の重大性を旧約記事の中に見出していったのかもしれません。そしてまた、本日の出来事は同じゼカリヤ書9:9において書かれている預言の成就であることを、主イエスはきっとご存知であったと思います。主、メシアは、高ぶることなく、ろばの子に乗っておいでになるとそこでは既に言われていたのであります。
 主は、さらに、子ろばを連れてこさせるために、指示されます。「もし、誰かが、その子ろばをほどいて、どうするつもりか、と言われたなら、こう言いなさい。『彼=それのその主が必要を持っておられます、すぐにまた、ここに、彼はお送りになります』と。」それで、彼らは進んでいくと、表通りの戸口に向かって、そとにつながれている子ろばを見出します。そして、ほどいていると、そこに居合わせたものたちのうちのある者たちが、言います。「その子ろばをほどいてどうするつもりか」と。それで、主イエスが言われたとおりにすると彼らは許してくれたというのであります。もとの文では以上のように書かれているのですが、実際にはどういうことだったのでしょうか。その子ろばの主人、所有者と予め相談しておいて、そうなっただけの話だったのでしょうか。マルコたち共観福音書の記者たちは、ことのなりゆきの背景については何も書き残していません。むしろ、その起こった出来事の中に、記者たちは、神の摂理、ご配慮を知らされ、余計なことを書く必要を感じなかったのではないでしょうか。他にも、王や偉大なラビたちは、乗り物の動物を借り出す権利を持っていたというようなことも言われていますが、そのような背景は、マルコにとって書く必要はなかったことでありましょう。まだ誰も乗ったことのない子ろばというのは、神のためにささげられる犠牲として、それが神聖なものであることを意味しています。また、表通りの町の交差路のようなところという、表通りとは、ぶどうの木という異なる写本、異読もあります。それは、ユダ族のなかから、救い主が出て、ぶどうの木につながれている子ろばという記事が創世記の49章11節にあり、それを暗示しているととったのであります。
 さて、こうして、彼らは、イエスのもとに子ろばを引いてくると、自分たちの上着をその上にかけ、主はその上にお座りになります。そして、人々も自分の服を前にしき、マタ別の者たちは葉の付いた枝を、わらやいぐさのようなものを前にしき広げたのであります。
 そして、前を行くものも、後を行くものも、次のように叫んでいたのであります。「ホサナ、主のみ名によってこられる方が祝福されるように。私たちの父ダビデの王国が祝福されるように。ホサナ、いと高きところにおいて」と。これは、詩編の118:25,26節に載っているエルサレムへの巡礼の場面の言葉です。彼らは、子ろばに乗ってエルサレムに入っていかれる方が、救い主、待たれたメシアであることは、知らずに、主イエスをほめたたえ、あるいは、偉大なラビの一人であるかのように思いながら、ホサナという、今救ってください、あるいは、ハレルヤというような巡礼において交わす挨拶のような言葉を叫んでいただけかもしれません。やがて、群集は消え去り、高揚していた群衆はいなくなっています。そして、今度は、主は受難の1週間を予期していたのでしょう、「エルサレムの境内のすべてのものを見回しになった後、遅くなったので12人と共に、ベタニアへと出て行かれた」と、本日の個所は締めくくられているのであります。
私たちは、クリスマスにお生まれになる主イエスを待つ季節に入りました。「主のみ名によって来られる方」であることを今の私たちは知っています。この日、子ろばにのって、低く平和な姿で人類のまことの王として地味な形でおいでになられた方を今年も今一度、心待ちに待ちたいと思います。私たちの心をこのメシア、「来られる方」に向けて整えていきたいと思います。アーメン。


 


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2005/11/27(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救いの希望」(マタイ25:31-46)
2005・11・20、聖霊降臨後最終主日(緑)
エゼキエル34:11-16、23-24、Ⅰテサロニケ5:1-11

マタイによる福音書25:31-46

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

説教「救いの希望」(マタイ25:31~46)渡辺賢次牧師
 いよいよ、本日の箇所、マタイ25:31-46をもって、この一年間の教会暦の終わりの聖霊降臨後最終主日を迎えています。一年の教会暦の終りにおいては、終末に関する事柄が扱われています。タラントンの譬え話も、10人の乙女の譬えも、そうであります。そして、本日は、終末に起こる出来事そのものについて、主は、私たちに語りかけられます。人の子が栄光において、その天使たちと共に来る時、すべての民、すなわち、地上に生を受けたすべての人間を右と左に、ちょうど、羊飼い・牧者が、羊と山羊を取り上げて、分けるように、より分けるとまず言われます。本日の主のお言葉は、譬えというよりも、終末の時に起こる出来事を記述的に表現したもののようであります。それは、壮大な光景でありましょう。これまでに生を受け、また今後も終末の時まで生まれてくる、また、死んでいくすべての人間が、十字架につかれた人の子、メシア的王のもとに、右と左に分けられるのであります。
 私たちは、死に対して非常な恐れを持っています。自分が、あるいは自分の意識がなくなるということは耐え難いことであるように思います。しかし、聖書は、終末のときに、すべての人は、人の子、メシア的王として、私たちに仕えるためにお出でになり、人々から「ユダヤ人の王」と皮肉を込めて言われ、私たち小さい者のために、小さくなってくださった、この地上の王とは違う、自己中心的ではないまことの王として、主イエスが、終りの日には、すべての人を集めてお裁きになると約束してくださっているのであります。  
 主はご自分のことを今や王として表現されながら、まず、右手の側にいる正しい者たちに言われます。「世界の創られる前から、御父によって祝福されている者たちよ、あなたがたに、準備されているみ国を所有しなさい。なぜならば、あなたがたは、私が飢えていたとき、食べ物を与えてくれ、喉が渇いていたとき、飲み物をくれ、よそ者だったとき、家に招いてくれたし、貧しい身なりをしていたとき、服を着せてくれ、病気の時、訪問してくれ、獄にいたとき、私のもとにやって来てくれたからである。」すると、その右手にいる人たちは言います。「主よ、あなたが飢えているのを私たちはいつ見かけ、食べ物を差し上げましたか。あなたがいつ渇いていた時にあなたを見て、水を飲ませてあげましたか、あなたが、よそ者で旅をしていたときいつ家に招きましたか、あなたが病身であるとき、また、獄にいるとき、私たちはいつあなたを訪問しましたか。」その時、王は答えて言うであろうと、言われるのであります。「はっきり言っておく。私の兄弟のこの最も小さい者たちにしたのは、私にしてくれたことなのだ。」次に、左側にいる人々に王は言うであろうと言われます。「私からあなた方は去っていけ、呪われた者たちよ、そして、悪魔とその使いたちに永遠に準備されている火の中へと。なぜならば、私が飢え、渇き、よそ者であり、病気であり、獄にいたとき、あなたがたは、先の者たちのようにはしてくれなかったからである。」と。この助け、世話をするというもとの言葉はディアコネオーといい、ディアコニアと同じ意味であります。左の者たちは、いつわたしたちはあなたが餓え、渇き、よそ者であり、裸であり、病気であり、獄にいたのをみて、世話をしなかったでしょうか」と聞きます。そのとき、王は言うと主は言われます。「よく言っておくが、これらの最も小さな者たちを世話してくれなかったのは、わたしにしなかったのである」と。この世話するというもとの言葉はデアコネオーと言い、今日のディアコニアという言葉になり、もともとは食事の世話をするといった意味の言葉です。
さて、主は、最後に「この左の者たちは、永遠の罰へとさるであろうし、正しい者たちは、永遠の命に入るであろう」と結ばれるのであります。
私たちは、本日の主の言葉を聞くとき、マザー・テレサの働きや靴屋のマルチンの物語を思い起こすのでありますが、しかしメシアである王が私たちに求めていることは、5千人の群衆を養われた主イエスのような大きな奇跡をなすことでもなく、あるいは、大勢の出会った病人を主イエスがしばしばなされた、私たちにはできそうもない働きをするように言われているのではありません。通常の地味な日常生活の中で、私たちのために、主も人間の最も低いところまでへりくだり、小さい者となって仕えてくださったように、私たちが心を主に向ければ用意にできることを、既に主によって救われた者として精一杯、行うことであります。
毎日のささやかな私たちの生活の中で、主イエスによって押し出されて、ルターの表現で言えば、一人ひとりが小さなキリストとなって、主のみ心に従った生活を送ることであります。そのように歩むなら、きっとキリスト教ではない仏教の方々もみ国に入れることでありましょう。そうして、主はすべての人を祝福の右側の席へ、羊の側へと招かれるのであります。主のお言葉によって、また、旧約聖書のみ言葉や使徒書を含めた全聖書の教えによって、正しくない生活は正していただきましょう。そして、いつも目覚めて、終末とそれぞれの生涯の終りの日に目を向けながら、備えていきたいものであります。アーメン。 





2005/11/20(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「終末に備えて生きる」(マタイ25:1~30)
マタイ25:1-30、2005・11・13、聖霊降臨後第26主日(教会暦の色―緑―)
ホセア11:1-9、Ⅰテサロニケ3:7-13

マライによる福音書25章1節~30節

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし、主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付で返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


説教「終末に備えて生きる」(マタイ25:1-30)渡辺賢次牧師

 来週の日曜日(11月20日)で、わたしたちは、一年の教会暦の歩みを終えることになります。この一年の終りの時に、考えるのにふさわしいことは、終末、この世界の終りの日、そして、神のもとでの最後の審判について考えることであります。
 本日はマタイ25:1-30が、福音として与えられています。少し長くテキストを取りましたが、二つの天の国の譬えいずれもが、終末に備えて、準備を怠りなくして日々の生活を歩むことであります。わたしは、そういう生活を願っておりますが、なかなか、体や頭がついていかず、毎週のように、生活が浮き沈みしていることを、感じさせられます。しかし、本日のこの箇所は、私たちに二つの譬えのいずれもが、注意して終りの日に備えて準備し、目覚めて生きていくなら、主は、父なる神とともに、花婿の婚宴の席に招いてくださるという約束であり、そのために、心を神に向けて、準備を怠りなくしていくようにとの主の勧告の言葉であります。
 まず、前半のマタイ25:1-13の箇所であります。10人のおとめが花婿を迎えるために、ランプをともして、ともし火を持って集まるのであります。たいまつであったということも、一説にはありますが、やはり、屋内で使うランプのようなものであったでしょう。
さて、10人のおとめのうちの5人は愚かであり、残りの5人は思慮分別があって、備えのオリーブ油のつぼ、容器を備えていたのであります。しかし、彼女らは待ちくたびれて、うとうとしはじめ、ついには深い眠りに陥ったのであります。5人の愚かなおともたち、半分の人たちとはどういうひとであるのでしょうか。マタイは特に教会に向けて、信者に向けて書かれた福音書であります。この5人も、やはり実際には、キリスト教の信者であろうかと思います。しかし、油の入った容器を持ってこなかったのであります。それは、信仰のことだというふうに、ルターがそう解しているのでありますが、そのように考えることもできるでしょう。あるいは、信仰から生まれるよき行いを伴っていなかった信者たちを表しているかもしれません。さらには、信仰を持たないで生きている、多くの日本の同胞について、そう考えることもできるでしょう。
 パウロは、ローマ書9章で、キリストを救い主として受け入れていないユダヤ人たちが、救いに与かるためには、自分はキリストから切り離されてもいいから、キリストを同胞の何人かにでも伝えたいと願っているといっています。しかし、いずれにしても、信仰のともし火を絶えずともし続け、日ごとに毎日をみ言葉によって養われる必要があるのであります。そうでないと、愚かだった5人のおとめのように主は「あなたがたのことは知らない」といわれ、「その日、その時」まで目を覚まして生きるようにと警告なさっておられます。
さて、後半の譬えの旅に出る主人から5タラントン、託され預かった人は、すぐに出て行き、5タラントンをもうけたのであります。次に2タラントン預かったしもべも2タラントンをさらに得たのであります。しかし1タラントン預かった人は、主が厳しい方でまかないところから刈り取り、箕で自ら穀物をふるいわけないところから集める方だと思って恐ろしくなり、行って、穴を掘り1タラントン、約6000デナリオンを地に隠したのであります。しかし、最初の二人とは違ってそのしもべが進み出て報告すると、予期に反して、主は「不精な悪いしもべだ」といって、外の暗闇に投げ捨てるように、おそらく、天使に命じられるのであります。
それぞれの人が、かけがえのない賜物を神から与えられています。自分はだめな人間だと悲観することは神さまに対して失礼でもあります。それぞれの力に応じて、ふさわしい能力や美徳を与えられている私たちであります。目を覚まして、主の再臨に備えて、なまぬるく生きがちな毎日の生活を、終りの日に向かって備えて生きたいものであります。
父なる神さま。
怠りがちなしもべを憐れんでください。あなたは、十字架を前にして、天の国にあずかり、花婿の婚宴にすべての人を招いておられます。それに励まされ、終りの日に主を喜びをもって見上げることができますように、一人一人を導いてください。キリストによって、アーメン。

2005/11/13(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天における大きな報い」(マタイ5:1~12)
マタイ5:1-12、2005・11・06、全聖徒主日(白)―聖餐式―
イザヤ26:1-13、ヨハネ黙示録21:22-27

マタイによる福音書5:1~12

 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

説教「天における大きな報い」(マタイ5:1-12)

 全聖徒主日を迎えました。私たちは、毎年この主日に遺族の方々を招いて、礼拝を守ります。しばしば、キリスト教は故人や先祖を仏教ほどに大事にしないというような批判を受けたりします。しかし、本日には、聖餐式もあるように、本来キリスト教の毎週の礼拝は、聖卓を中心として、先に召された方々とともに守っているのであり、私たちは決して、故人や自分たちの先祖をないがしろにしているわけではありません。
 本日は、特に、この先に召された人たち、特にキリストにあって召された信仰の先達たちをおぼえる主の日であります。先ほど言いましたように、本日持ちます聖餐も、主の食卓を中心として、今生きている私たちがこちら側に半円を描いて立ち並び、残りの半円は、先に召された方々が、そこに共に立って、終りの日に主が約束された宴に与かるのであります。
 さて、全聖徒とは、決して、いわゆる聖人といわれる限られた人々だけを指すのではありません。私たち津田沼教会の教会案内として、週報に時々載せます案内には、聖徒とは、自分の罪に目を留め、罪の贖い主である主イエス・キリストに自分の人生を預けたすべての人を、すなわち今は地上になき人たちも、現在生きています私たちも含めて指しているのであります。
 この全聖徒主日において、本日与えられています福音は、マタイ5:1~12であります。どうして、この箇所が、本日選ばれているのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の箇所は、主イエスがみ国の福音について、実質的にご自分の口を開いて語られる最初の部分であります。いわゆる山上の説教として、先ほどお読みしましたように語り始められるのであります。それは、主が群衆たちに目をやりながら山に上り、みそばに近づいてきた弟子たちに、お座わりになって、口を開かれるのであります。私たち、信者に対してだけではなく、耳を傾ける群衆にも向かって、それらの言葉は語られているのであります。すなわち、これらの言葉は、本日礼拝に集っているすべての人に対して語られているのであります。
 本日の主のお言葉は、「幸いなるかな、あるいは祝福されているよ、以下の者たちは」、という言い方が続いています。それらが、八つ並んでいるので八つの至福とか、さらに祝福されているよ、あなた方はという11,12節も含めて九つの幸いとか言われています。
 祝福されているよ、心の貧しい人々は、なぜなら、天の国はその人たちのものだから、から始まって、柔和な人たち、義に飢え、渇いている人たち、柔和な穏やかな人たち、悲しんでいる人たちなどが幸いなものたちとして、あげられています。「天の国」という言葉と、「義」という言葉が、鍵になっています。
 義とは、私たちのあるべき振る舞いということができるでしょう。主はこの後でも、あなたがたの義がファリサイ派や律法学者たちの義にまさっていなければ、天の国に入ることはできないといわれ、また、あなたがたの天の父が完全であるようにあなたがたも、完全なものとなりなさいといわれています。
 さて、主は、その八福の中で、その一つに「悲しんでいる人々は幸いである、彼らは慰められるであろうから」、といっています。嘆き悲しむべきこと、あるいは、辛い挫折の体験などは、私たちはできれば、避けて通りたいものです。しかし、苦しい体験を通して、そして、さらには、キリストのために苦しむような体験を通して、私たちは、神さまからいつの日か、その涙をぬぐわれ、至福の喜びに与かる時、「天における大きな報い」に与る時がくるのではないでしょうか。
 主は、その最後に、「幸いなるかな、人々があなたがたにあらゆる悪いことをののしり、とがめるとき、わたしのために偽っていうであろうとき、あなたがたは」と言われます。そして、あなたがたよりまえの預言者たちも同じように迫害されたのであるから、そのときには、喜べ、大いに喜べといわれます。
 マタイの教会の時代は、主イエスのなきあと、50年ほどを経過していました。彼らは、ユダヤ人たちや異邦人たちから激しい迫害にあっていたことでしょう。それに比べれば、現代の私たちはそのような形で見える迫害にはもはやあっていないでしょう。けれども、見えない形で、わたしたちの先達も、また、わたしたちも、迫害を経験しながら、また、キリストのために苦しむことをも与えられてきたものであります。
 すでにその戦いを終えた先達の信仰を見上げながら、わたしたちも、キリストのために喜んで苦しみをも担う信仰を持ち続けたいと思います。
 本日出席された遺族の方々とともに、先達たちの体験したであろう悲しみや、つらいことをも、神さまが、終りの日に、すべて、わたしたちの涙をもぬぐってくださり、天における大きな報いに与ることを確信しながら、信仰の道をこの主の日から再び新たに踏み出していきたいものであります。
天の父なる神さま。
あなたは、わたしたちが、キリストの弟子ゆえに、またそのお言葉に耳を傾けるゆえに受ける苦しみや困難をよくご存知であります。しかし、わたしたちは、そのさきに、あなたによって、また、み子によってもてなされる喜びの祝宴をも知らされています。どうか、わたしたちも、それぞれの人生の終りの日まで、その悲しみや困難から逃げ出すことなく、その後にあなたが与えてくれる喜びと慰めを信じて歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。
 

2005/11/06(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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