マタイ20:1−16、2005・10・09、聖霊降臨後第21主日(緑)
イザヤ書55:6−9、フィリピの信徒への手紙1:12−30
マタイによる福音書20章1〜16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき、一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
説教「神の分け与えるもの」(マタイ20:1〜16)
聖霊降臨後第21主日を迎えました。もう、今年度の一年の教会暦の残された主日も少なくなってきました。本日は、私たちは、先ほどお読みしましたマタイ福音書の20章の1節から16節までの「ぶどう園の労働者」と言われる主イエスのお語りになった譬えを与えられています。それは、教会の暦の上での一年の終わりに近づいているこのときに、私たちがこの一年を振り返り、また私たちに与えられているこれからのことを考える上でもふさわしい主のお言葉ではないかと思います。主がお語りになった本日の天の国の譬えが、今日の私たちにとってどのような意味を持つのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日の福音は、もとの文では、「なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の一家の主人に似ているからである」と始まっています。すなわち、文脈としては、前の文章に続いており、前の文章では、ある金持ちの青年がやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と尋ね、主イエスに、あなたが完全になりたいなら、持ち物を売り払って、私に従うように、言われ、悲しみながら立ち去り、主は、金持ちが天の国に入るのは、難しいと言われ、ペトロが、「私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました、ついては、何をいただけるのでしょうか」、と聞いたときに、主は「あなたがたはイスラエルの12部族をみ国において、治めるようになる」、と言われました。そして、最後に、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と主は語られました。
天の国では、私たちはどのようになるのか、先の者が後になり、後の者が先になることが起こる、なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の主人に譬えられるからであると、本日の主のお言葉は始まっているのであります。
さて、主は、続けて語られました。その一家の主人は、朝早く、ぶどう園へと働き人たち、すなわち労働者を雇うために出て行った。そして、広場、市場で、何もしないで過ごしている者たちと、一日一デナリオンで同意して、彼らを自分のぶどう園へと派遣したのであります。一デナリオンとは、当時の労働者の一日の平均賃金であり、彼が自分と家族たちの生計を立てるに必要な金額でありました。今の私たちにおいて言えば、一万円ほどにあたりましょう。主イエスは、農業からの譬えをしばしば使われ、また、ぶどう園、あるいは、ぶどうの木とは、イスラエルの民を表すためによく用いられた表現でした。弟子たち、あるいは、その他の聴衆は、主が語られるぶどう園と労働者の譬えに、親しみをもって耳を傾けたことでしょう。
さて、その主人は、第三時、すなわち、9時ころにも広場に行きました。すると、同じように、何もしないで、手持ち無沙汰にしている者たちを見出したので、語ります。「正しい分を与えるのであなたがたもぶどう園に行きなさい。」彼らは出て行きました。第6の時、すなわち、12時ころと第9時、3時ころに、彼は出て行き、同じようにしました。
さて、第11時、すなわち、午後の5時ころにも、彼は出て行くと、やはり、何もしないで立っている者たちを見出します。「なぜ、あなたがたは立ちふさいでいるのか」とその農場主が聞きますと、「だれも私たちを雇ってくれなかったからです」と彼らは答えました。彼は、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言い、彼らは出て行きました。
さて、夕方になったとき、彼はその財産管理人を呼んで、語ります。「労働者たちを、後の者たちから始めて、最初の者たちまで報酬を支払ってやりなさい。」それで、午後の5時から働いた者たちは、一デナリオンずつ受けました。そして、最初に働いた者たちがそれを見たとき、彼らは、自分たちは、よけいに支払われるだろうと思いました。しかし、彼らも与えられたのは一デナリオンだけでした。彼らは、彼に不平をぶつぶつと言っていました。「あなたは、一日の重荷と暑い熱風を耐えた私たちを1時間しか働かなかった者たちとを同じになさった。」
すると、彼らの一人に、主人は語ります。「友よ、私はあなたをだましたりしていない。私が、自分のものをしたいようにすることは許されていないのか。それとも、あなたは、私が良い者であるので、あなたの目は濁っているのか。自分のものを取って、出て行きなさい。」
このように、後の者たちは最初の者たちとなり、最初の者たちは、後の者たちになるであろう。主イエスは、以上のように、非常に思いがけない、いつまでも心に残る譬えをなさいました。それを主は、ユダヤ人たちと異邦人たち、あるいは、ユダヤ人のキリスト者と、異邦人キリスト者を念頭に言っておられたのかもしれません。しかし、わたしたちは、本日のぶどう園と労働者の譬えにおいをもっと広げて、この世界において働く喜びを求めているわたしたち全員を、本日のそれぞれ働いた労働者たちのうちに考えることが許されるでしょう。そして、救いの恵みとは、本日の主が譬えられている通りすべての人に及ぶものであります。
この教会においては長い信仰生活をしておられる方もおられます。生まれたときから、すぐに洗礼を授けられた方もおられます。また、現在求道中である方もおられます。私たちは、ルーテル教会に属していますが、ルターの「信仰によってのみ義とされる」ということの本当の意味が分かるまでにも、それぞれ長い道のりや挫折の体験を必要とするということもあるでしょう。
さて、しかし、神さまは、本日の最後の1時間を働いた人にも、朝早くから夕方まで働いた人にも、必要な一デナリオンを、わけ隔てなく、一人ひとりに分け与えることをお選びになるのです。それは、私たち、一人ひとりに主がお与えになる永遠の命であり、恵みであります。私たちは、先に信仰を与えられた者も、遅くなってそれを見出した者も、主は平等に恵みを与えることを、知って、先の者も後の者も互いに励ましあい、み国に召される日まで、自分のそれぞれの仕事に、家事に、交わりにいそしみ、信仰生活を深めていきたいものであります。祈りましょう。
天におられる恵み深い神さま。
あなたは、教会につながるあらゆる兄弟姉妹をすべて永遠の命に、救いに与らせてくださいます。さらには、また、主を知らずに召された方、また、求道中の方、さらには、主イエスのお言葉に反抗する者たちにも、恵みを与えようとなさっておられます。私たちのすべての者があなたから、生きるのに必要な一デナリオンをいただいて、この世界で喜びをもって働き、それぞれの生涯をまっとうできますように導いてください。互いに弱さを担い合い、仕え合う交わりを、教会において、あるいは家庭において築かせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
イザヤ書55:6−9、フィリピの信徒への手紙1:12−30
マタイによる福音書20章1〜16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき、一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
説教「神の分け与えるもの」(マタイ20:1〜16)
聖霊降臨後第21主日を迎えました。もう、今年度の一年の教会暦の残された主日も少なくなってきました。本日は、私たちは、先ほどお読みしましたマタイ福音書の20章の1節から16節までの「ぶどう園の労働者」と言われる主イエスのお語りになった譬えを与えられています。それは、教会の暦の上での一年の終わりに近づいているこのときに、私たちがこの一年を振り返り、また私たちに与えられているこれからのことを考える上でもふさわしい主のお言葉ではないかと思います。主がお語りになった本日の天の国の譬えが、今日の私たちにとってどのような意味を持つのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日の福音は、もとの文では、「なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の一家の主人に似ているからである」と始まっています。すなわち、文脈としては、前の文章に続いており、前の文章では、ある金持ちの青年がやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と尋ね、主イエスに、あなたが完全になりたいなら、持ち物を売り払って、私に従うように、言われ、悲しみながら立ち去り、主は、金持ちが天の国に入るのは、難しいと言われ、ペトロが、「私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました、ついては、何をいただけるのでしょうか」、と聞いたときに、主は「あなたがたはイスラエルの12部族をみ国において、治めるようになる」、と言われました。そして、最後に、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と主は語られました。
天の国では、私たちはどのようになるのか、先の者が後になり、後の者が先になることが起こる、なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の主人に譬えられるからであると、本日の主のお言葉は始まっているのであります。
さて、主は、続けて語られました。その一家の主人は、朝早く、ぶどう園へと働き人たち、すなわち労働者を雇うために出て行った。そして、広場、市場で、何もしないで過ごしている者たちと、一日一デナリオンで同意して、彼らを自分のぶどう園へと派遣したのであります。一デナリオンとは、当時の労働者の一日の平均賃金であり、彼が自分と家族たちの生計を立てるに必要な金額でありました。今の私たちにおいて言えば、一万円ほどにあたりましょう。主イエスは、農業からの譬えをしばしば使われ、また、ぶどう園、あるいは、ぶどうの木とは、イスラエルの民を表すためによく用いられた表現でした。弟子たち、あるいは、その他の聴衆は、主が語られるぶどう園と労働者の譬えに、親しみをもって耳を傾けたことでしょう。
さて、その主人は、第三時、すなわち、9時ころにも広場に行きました。すると、同じように、何もしないで、手持ち無沙汰にしている者たちを見出したので、語ります。「正しい分を与えるのであなたがたもぶどう園に行きなさい。」彼らは出て行きました。第6の時、すなわち、12時ころと第9時、3時ころに、彼は出て行き、同じようにしました。
さて、第11時、すなわち、午後の5時ころにも、彼は出て行くと、やはり、何もしないで立っている者たちを見出します。「なぜ、あなたがたは立ちふさいでいるのか」とその農場主が聞きますと、「だれも私たちを雇ってくれなかったからです」と彼らは答えました。彼は、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言い、彼らは出て行きました。
さて、夕方になったとき、彼はその財産管理人を呼んで、語ります。「労働者たちを、後の者たちから始めて、最初の者たちまで報酬を支払ってやりなさい。」それで、午後の5時から働いた者たちは、一デナリオンずつ受けました。そして、最初に働いた者たちがそれを見たとき、彼らは、自分たちは、よけいに支払われるだろうと思いました。しかし、彼らも与えられたのは一デナリオンだけでした。彼らは、彼に不平をぶつぶつと言っていました。「あなたは、一日の重荷と暑い熱風を耐えた私たちを1時間しか働かなかった者たちとを同じになさった。」
すると、彼らの一人に、主人は語ります。「友よ、私はあなたをだましたりしていない。私が、自分のものをしたいようにすることは許されていないのか。それとも、あなたは、私が良い者であるので、あなたの目は濁っているのか。自分のものを取って、出て行きなさい。」
このように、後の者たちは最初の者たちとなり、最初の者たちは、後の者たちになるであろう。主イエスは、以上のように、非常に思いがけない、いつまでも心に残る譬えをなさいました。それを主は、ユダヤ人たちと異邦人たち、あるいは、ユダヤ人のキリスト者と、異邦人キリスト者を念頭に言っておられたのかもしれません。しかし、わたしたちは、本日のぶどう園と労働者の譬えにおいをもっと広げて、この世界において働く喜びを求めているわたしたち全員を、本日のそれぞれ働いた労働者たちのうちに考えることが許されるでしょう。そして、救いの恵みとは、本日の主が譬えられている通りすべての人に及ぶものであります。
この教会においては長い信仰生活をしておられる方もおられます。生まれたときから、すぐに洗礼を授けられた方もおられます。また、現在求道中である方もおられます。私たちは、ルーテル教会に属していますが、ルターの「信仰によってのみ義とされる」ということの本当の意味が分かるまでにも、それぞれ長い道のりや挫折の体験を必要とするということもあるでしょう。
さて、しかし、神さまは、本日の最後の1時間を働いた人にも、朝早くから夕方まで働いた人にも、必要な一デナリオンを、わけ隔てなく、一人ひとりに分け与えることをお選びになるのです。それは、私たち、一人ひとりに主がお与えになる永遠の命であり、恵みであります。私たちは、先に信仰を与えられた者も、遅くなってそれを見出した者も、主は平等に恵みを与えることを、知って、先の者も後の者も互いに励ましあい、み国に召される日まで、自分のそれぞれの仕事に、家事に、交わりにいそしみ、信仰生活を深めていきたいものであります。祈りましょう。
天におられる恵み深い神さま。
あなたは、教会につながるあらゆる兄弟姉妹をすべて永遠の命に、救いに与らせてくださいます。さらには、また、主を知らずに召された方、また、求道中の方、さらには、主イエスのお言葉に反抗する者たちにも、恵みを与えようとなさっておられます。私たちのすべての者があなたから、生きるのに必要な一デナリオンをいただいて、この世界で喜びをもって働き、それぞれの生涯をまっとうできますように導いてください。互いに弱さを担い合い、仕え合う交わりを、教会において、あるいは家庭において築かせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2005/10/09(日) 10:30:01| 未分類|
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