津田沼教会 牧師のメッセージ
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「真理は自由にする」(ヨハネ8:31~36)
ヨハネ8:31~38、2005・10・30、宗教改革主日(教会暦の色―赤―)
エレミヤ書31:31-34、ローマの信徒への手紙3:19-28

ヨハネによる福音書8章31節~36節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

「真理は自由にする」(ヨハネ8:31~36)
 本日は宗教改革主日であります。これは、1517年10月31日、すなわち、全聖徒の日である11月1日の前日に、当事ローマ・カトリック教会のアウグスチヌス修道会の修道士であったマルチン・ルターがヴィッテンブルクの城教会の門扉に、95カ条の提題を掲げたことによって、それが全ヨーロッパに広がることになったことを覚えての本日の礼拝であります。それは、よく知られていますように、当時の免罪符で父母や先祖の救いが得られるというローマ・カトリック教会の動向などに反対したものであります。それから更に、聖書には書かれていないとして、マリア崇拝や聖人崇拝などにもルターは、反対したのであります。
しかし、彼は、当時のカトリック教会を出る意志はなかったのでありますが、宗教改革の火がこのことを通して、ヨーロッパに広がっていき、カトリック教会から破門されることになるのであります。そして、ルターを中心とする宗教改革は、信仰のみによって義とされるというふうにローマ書の1:17を解釈し、それらはパウロの再発見というふうにも捉えられています。
わたしたちは、信仰のみによって、義とされるというルターの解釈を耳にたこができるほど聞かされて、信仰生活を送っているものであります。信仰のみによって神の前に義とされるということは、なぜそういうふうに繰り返され、他のことによって取り替えられないかというと、それは、私たちには、行いをもって、すぐに、自分のわざとして、誇ることが起こるからではないかと私は考えます。そしてしかし、そのことは、わたしたちの行いがどうでもよいということではありません。
ややもすれば、実際には生活がルーズになったりしがちでありますが、ルター自身が「良い行いについて」という著作を当時並行して出していることでも、良い行いが大切でないということではないことが、ルターの本意であることがわかります。
しかし、繰り返しますが、現実の信仰生活を振り返りますと、信仰と行いとの間に大きな緊張関係と言いましょうか、ギャップが生まれやすいことも、わが身を省みて認めなければなりません。
 さて、本日の福音では、イエスの言葉を聞いて信じたユダヤ人たちに、イエスは、本日の箇所のお言葉を語っているのであります。「真理はあなたがたを自由にする」と、主は言われます。そして、罪を行うものは、罪の奴隷であるといわれます。イエス・キリストが、わたしたちの闇と死を、すなわち罪を取り除くためにお出でになられました。このイエス・キリストにおいて、わたしたちは死から命へと移されています。
それは、科学だとか、人間の理性で得ることができると信じられているような一般的真理を、主イエスが示しておられるのではありません。
さて、ユダヤ人たちは、自分たちはかつて、奴隷になったことはないと反論します。エジプトで奴隷になったことや、バビロン捕囚などの敵国によって奴隷とされたことはありましたが、ユダヤ人たちは、霊的な自由を失ったことはないと自負していたのであります。けれども、主イエス・キリストが神から来られ、命をもたらすお方であることを否定するもの、この神のご意志に従順に従わないものは、罪を行うものであります。
ルターは言いました、わたしたちは、罪の奴隷であるか、神のしもべであるか、そのいずれかであり、中立はありえないのであります。馬車の御者は、神であるか、さもなくば、サタンでしかないとルターは表現しています。
 そしてこの自由を与えられた信仰者として、「わたしたちは、すべてのものの上に自由な王である、かつ、すべてのもの、すべての隣人に仕えるしもべである」のであります。わたしたちは、時として罪に陥りますが、みことばにすぐに立ち返って、日ごとに、悔い改めの生涯をここから再びはじめようではありませんか。アーメン。


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2005/10/30(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に選ばれた私たち」(マタイ22:1~14)
マタイ22:1~14、2005・10・23、聖霊降臨後第23主日
エレミヤ書31:1~6、フィリピの信徒への手紙3:12~16

マタイによる福音書22:1~14
イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

説教「主に選ばれた私たち」(マタイ22:1~14)
 
本日、与えられている福音は、マタイによる福音書22章の1節から14節までであります。先週はこの前の部分のぶどう園の持ち主と悪い農夫たちの譬えが福音の日課として与えられていました。今日の部分は、それに続く譬えであります。主イエスは、再び続けて、彼らに、譬えを用いて語られます。彼らとは、ファリサイ派の者たちや律法学者たち、または、主イエスの弟子たちや民衆をも、指しているかもしれません。
さて、主は、こう言われるのであります。天の国は、ある王が、その息子のために、結婚式の披露宴を準備してやる次のような出来事に譬えられる。すなわち、彼は、まず最初に、その招いておいた者たちを呼びに、自分の奴隷たちを送ったのであります。しかし、招いておいた者たちは、来ようとしませんでした。
それで、二回目は次のように言って、自分の奴隷たちを送ったのであります。「食事を私は用意しました。雄牛や肥えた家畜はほふられ、すべての用意が整いました。どうぞ、この婚宴へとおいでなさい。」しかし、彼らは、それを無視して、ある者は、畑へと、また、ある者は、商売へと出て行ったのです。さらに、残った者たちは、王の奴隷たちに乱暴し、あるいは、彼らを殺してしまったのです。
 すると、王は怒って、その者たちを滅ぼし、彼らの町を焼き払いました。それは、旧約の時代から、新約の時代にわたって、神が預言者たちを送って、人間たちを何とかして救おうとしたが、それを断わってきた頑固なイスラエルの人々や、私たち人間の歴史をも現しているでしょう。
 王は、さらに三回目に、自分の奴隷たちに言います。「結婚式の披露宴の用意はできているが、招いておいた者たちは、それにふさわしくなかった。それで、あなたがたは、町の大通りに出て行って、誰でも見かけた人たちを招いてきなさい」。それで、彼らは出て行って、見かけた人は皆、悪人も善人も連れてきました。そして、披露宴の会場は、食事の席につく者でいっぱいになったのであります。現実の教会は、悪人も善人も入り混じっていると主は警告なさいます。
さて、王は、連れて来られた客たちに、挨拶に出て行くと、そこに一人の結婚式の礼服を着ていない人を見出したのであります。王は訊ねます、「友よ、なぜ、礼服を持ってこなかったのか」と。その人は何も言えず黙っていました。それで、王は、側近の者たち(ディアコノス・もともと給仕をする者の意味)に「この者を外の暗闇に投げ出せ。そこで彼は、泣きわめき、歯ぎしりするだろう」といわれました。そして、聖書は、最後に、なぜならば、招かれる人は多いが、選ばれる人はわずかだからであると、本日の部分を書き終えています。
 私たち人間はすべての人が、神によって、救いへと、また洗礼へと招かれています。私たちは、いろいろな経過を経て、主イエスのもとへ、そしてまた、教会へと招かれた者の集まりであります。けれども、本日の礼服を持たないで、婚宴へとやって来た人のようになる危険性がそのだれにもあります。礼服を着てこなかった人とは何を意味し、誰のことなのでしょうか。それは、復活の体を持たないで、主イエスを着ないで、生活するということであります。そして、神さまによって救いへと与っておきながら、どうでもいい、いい加減な生き方をすることであります。私たち誰にもやって来る終わりのとき、る裁きの日に、この人のように、外の暗闇に天使たちによってほうり出されることなく、救いに招かれた者として、パウロのように前を見ながら、しっかりと歩みたいものであります。
本日はこのあと、聖餐に、あずかります。それは、終わりの日に主イエスがもてなしてくださる神の国での大宴会を、表わしています。その喜びにあずかる約束に信頼しながら、しかも、復活を信じ、主のみ前で威儀を正してつつましく生きる新しい1週間へと派遣されていきましょう。
人知ではとうていはかりしることのできない神の平安がキリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いとを守るように。アーメン。




2005/10/23(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「実を結ぶ民」(マタイ21:33~44)
マタイ21:33-44、2005・10・16、聖霊降臨後第22主日
イザヤ書5:1-7、フィリピの信徒への手紙2:12-18

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
 『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
  これは、主がなさったことで、
  わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

2005年10月16日(日)聖霊降臨後第22主日礼拝(教会暦の色―緑)
説教「実を結ぶ民」内海望牧師(日本福音ルーテル教会引退教師・津田沼教会教会員)

 今日の最初の聖書イザヤ5章1節以下を読みますと、神さまがどんなに人間を愛し、そのためにこの世界をぶどう畑として整えて下さったか、また、「実ったのが酸っぱいぶどうであったか」ということを、悲しみをもって語っていらっしゃるかが書かれています。裏切られた悲しみがひしひしと伝わってくる詩です。
 今日のイエスさまのたとえは、そのことを聖書の歴史を通じて、聴くものに分からせようとされているのです。主人に遣わされた僕は預言者たちのことであり、主人の息子がイエスさまであることが言をまたないでしょう。預言者の歴史は殉教者の歴史であり、イエスさまの生涯は十字架の死なのです。
 聖書の歴史は、神さまの愛と、それを踏みにじる人間の罪との葛藤の歴史です。そして、その原点がアダムとエヴァなのです。「それを食べると、神さまのように目が開け、善悪を知る者となる」という言葉に負けて、アダムとエヴァは禁断の木の実を
食べてしまいました。
 そしてこの神さまが愛する者のためにきめ細かく心を砕いて創造して下さった世界をあたかも自分たちが創造者・主人であるかのように自分勝手に用いているのです。そして、僕たちを袋叩きにし、石で打ち殺してしまったのです。そして、最後には息子をぶどう園の外にほうり出して殺してしまうのです。神さまから世界を奪い取り、自分たちの物としてしまうのです。
 「人間が世界の主人だ。何が良いか、何が悪いか人間が決める」という罪が世界をおおっているのです。これが生態系の破壊、戦争、憎しみの原因となっているのです。真に[原罪]と言わなければなりません。
 さて、今日の譬えで、わたしたちが目をとめたいのは、祭司長たちや、ファリサイ派の人々の態度です。
 彼らは、イエスさまがこの譬えを語られるのを聞いて、イエスさまが自分たちのことを言っておられることに気づき、イエスさまを殺害しようとしたのです。ある意味で、彼らはこのたとえを正しく聞いたといえましょう。自分たちの行っていることに気づかされたのです。しかし、彼らは悔い改めることをしないで、反対にイエスさまを殺そうとしたのです。
 それで弟子たちは、何よりも私たちはどうでしょうか。私たちは、「本当に世界は罪に満ちている。確かにイエスさまがおっしゃる通りだ」と慨嘆することはあるでしょう。そして私たちがしっかりしなければいけないと考えるのではないでしょうか。
 しかし、そのような読み方こそまさに人間の落とし穴なのです。旧約聖書のダビデのことを思い出して下さい。彼は王の地位を利用して、忠実で、勇敢な部下のウリヤ将軍の妻を奪い取り、あまつさえ彼をいちばん激しい戦場に送って戦死させてしまったのです(サムエル下11章以下)。そしてウリヤの妻バト・シェバを自分の妻としてしまったのです。しかし、おごり高ぶっているダビデには罪の意識はありませんでした。自分の願い・欲望が満たされたことに満足していました。ダビデは預言者ナタンから自分の行ったことを譬えで聞かされました。それでも、ダビデにはまだ他人事でとして聞き、「そのような男は死罪に処するべきだ」と激しく怒ったのです。
 その時、預言者ナタンは勇敢にも、「その男はあなただ。」と鋭く指摘したのです。その時、ダビデははっと我に帰り、心から悔い改めたのです。そしてあの詩編51編を謳ったのです。「1.2.3.4.9節」にダビデの切々たる罪の思い、悔い改めの心情が表れています。
 翻って、私たちの日々の生活、心の思いを神さまの前で点検してみましょう。私たちも神さまよりこの世の幸いを大切にし、自分中心に生き、人を裁き、自分は祭司長やファリサイ派の人々とは違うと何食わぬ顔をして生きているのではないでしょうか。イエスさまをぶどう園の外にほうり出して平気で生きているのです。「今、ここにイエスさまが来られたら十字架などに決してつけないだろう、と言う人は反省しなさい。君は真っ先に『十字架につけよ』と叫ぶ群衆のひとりになるのだ」と激しい言葉を語った人がいます。私たちはイエスさまに心の奥底まで見抜かれることに耐え切れなくなるのです。そしてイエスさまを殺す側に立つのです。
 そうであってはならないのです!!私たちはダビデのように遅ればせでもよい、心から「自分こそ死罪に当たる人間です。私を助けてください。私の心を新しくし、雪のように白くして下さい!」と心から懺悔し、悔い改めることが大切です。
 その時、私たちはイエスさまが「神の国は新しい、実を結ぶ民に与えられる」という約束を恵みの言葉として聞くことになるのです。新しい民として出発できるのです。
 自分を神とする生き方、自己絶対主義を捨て、新しい神の民、罪赦された恵みに生きる民の一員として歩みましょう。
2005/10/16(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神がわけあたえるもの」(マタイ20:1~16)
マタイ20:1-16、2005・10・09、聖霊降臨後第21主日(緑)
イザヤ書55:6-9、フィリピの信徒への手紙1:12-30

マタイによる福音書20章1~16
 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき、一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


説教「神の分け与えるもの」(マタイ20:1~16)
 
聖霊降臨後第21主日を迎えました。もう、今年度の一年の教会暦の残された主日も少なくなってきました。本日は、私たちは、先ほどお読みしましたマタイ福音書の20章の1節から16節までの「ぶどう園の労働者」と言われる主イエスのお語りになった譬えを与えられています。それは、教会の暦の上での一年の終わりに近づいているこのときに、私たちがこの一年を振り返り、また私たちに与えられているこれからのことを考える上でもふさわしい主のお言葉ではないかと思います。主がお語りになった本日の天の国の譬えが、今日の私たちにとってどのような意味を持つのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の福音は、もとの文では、「なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の一家の主人に似ているからである」と始まっています。すなわち、文脈としては、前の文章に続いており、前の文章では、ある金持ちの青年がやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と尋ね、主イエスに、あなたが完全になりたいなら、持ち物を売り払って、私に従うように、言われ、悲しみながら立ち去り、主は、金持ちが天の国に入るのは、難しいと言われ、ペトロが、「私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました、ついては、何をいただけるのでしょうか」、と聞いたときに、主は「あなたがたはイスラエルの12部族をみ国において、治めるようになる」、と言われました。そして、最後に、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と主は語られました。
天の国では、私たちはどのようになるのか、先の者が後になり、後の者が先になることが起こる、なぜならば、天の国は、以下のぶどう園の主人に譬えられるからであると、本日の主のお言葉は始まっているのであります。
 さて、主は、続けて語られました。その一家の主人は、朝早く、ぶどう園へと働き人たち、すなわち労働者を雇うために出て行った。そして、広場、市場で、何もしないで過ごしている者たちと、一日一デナリオンで同意して、彼らを自分のぶどう園へと派遣したのであります。一デナリオンとは、当時の労働者の一日の平均賃金であり、彼が自分と家族たちの生計を立てるに必要な金額でありました。今の私たちにおいて言えば、一万円ほどにあたりましょう。主イエスは、農業からの譬えをしばしば使われ、また、ぶどう園、あるいは、ぶどうの木とは、イスラエルの民を表すためによく用いられた表現でした。弟子たち、あるいは、その他の聴衆は、主が語られるぶどう園と労働者の譬えに、親しみをもって耳を傾けたことでしょう。
 さて、その主人は、第三時、すなわち、9時ころにも広場に行きました。すると、同じように、何もしないで、手持ち無沙汰にしている者たちを見出したので、語ります。「正しい分を与えるのであなたがたもぶどう園に行きなさい。」彼らは出て行きました。第6の時、すなわち、12時ころと第9時、3時ころに、彼は出て行き、同じようにしました。
 さて、第11時、すなわち、午後の5時ころにも、彼は出て行くと、やはり、何もしないで立っている者たちを見出します。「なぜ、あなたがたは立ちふさいでいるのか」とその農場主が聞きますと、「だれも私たちを雇ってくれなかったからです」と彼らは答えました。彼は、「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言い、彼らは出て行きました。
さて、夕方になったとき、彼はその財産管理人を呼んで、語ります。「労働者たちを、後の者たちから始めて、最初の者たちまで報酬を支払ってやりなさい。」それで、午後の5時から働いた者たちは、一デナリオンずつ受けました。そして、最初に働いた者たちがそれを見たとき、彼らは、自分たちは、よけいに支払われるだろうと思いました。しかし、彼らも与えられたのは一デナリオンだけでした。彼らは、彼に不平をぶつぶつと言っていました。「あなたは、一日の重荷と暑い熱風を耐えた私たちを1時間しか働かなかった者たちとを同じになさった。」
 すると、彼らの一人に、主人は語ります。「友よ、私はあなたをだましたりしていない。私が、自分のものをしたいようにすることは許されていないのか。それとも、あなたは、私が良い者であるので、あなたの目は濁っているのか。自分のものを取って、出て行きなさい。」
このように、後の者たちは最初の者たちとなり、最初の者たちは、後の者たちになるであろう。主イエスは、以上のように、非常に思いがけない、いつまでも心に残る譬えをなさいました。それを主は、ユダヤ人たちと異邦人たち、あるいは、ユダヤ人のキリスト者と、異邦人キリスト者を念頭に言っておられたのかもしれません。しかし、わたしたちは、本日のぶどう園と労働者の譬えにおいをもっと広げて、この世界において働く喜びを求めているわたしたち全員を、本日のそれぞれ働いた労働者たちのうちに考えることが許されるでしょう。そして、救いの恵みとは、本日の主が譬えられている通りすべての人に及ぶものであります。
この教会においては長い信仰生活をしておられる方もおられます。生まれたときから、すぐに洗礼を授けられた方もおられます。また、現在求道中である方もおられます。私たちは、ルーテル教会に属していますが、ルターの「信仰によってのみ義とされる」ということの本当の意味が分かるまでにも、それぞれ長い道のりや挫折の体験を必要とするということもあるでしょう。
 さて、しかし、神さまは、本日の最後の1時間を働いた人にも、朝早くから夕方まで働いた人にも、必要な一デナリオンを、わけ隔てなく、一人ひとりに分け与えることをお選びになるのです。それは、私たち、一人ひとりに主がお与えになる永遠の命であり、恵みであります。私たちは、先に信仰を与えられた者も、遅くなってそれを見出した者も、主は平等に恵みを与えることを、知って、先の者も後の者も互いに励ましあい、み国に召される日まで、自分のそれぞれの仕事に、家事に、交わりにいそしみ、信仰生活を深めていきたいものであります。祈りましょう。
 
天におられる恵み深い神さま。
あなたは、教会につながるあらゆる兄弟姉妹をすべて永遠の命に、救いに与らせてくださいます。さらには、また、主を知らずに召された方、また、求道中の方、さらには、主イエスのお言葉に反抗する者たちにも、恵みを与えようとなさっておられます。私たちのすべての者があなたから、生きるのに必要な一デナリオンをいただいて、この世界で喜びをもって働き、それぞれの生涯をまっとうできますように導いてください。互いに弱さを担い合い、仕え合う交わりを、教会において、あるいは家庭において築かせてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


2005/10/09(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「兄弟を赦しなさい」(マタイ18:21~35)
マタイ18:21-35、聖霊降臨後第20主日(緑)、2005・10・02
創世記50:15-21、ローマの信徒への手紙14:1-18

マタイによる福音書18:21-35
 「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

説教「兄弟を赦しなさい」(マタイ18:21~35)

聖霊降臨後第20主日を迎えました。わたしたちは、このところ数週間にわたって、マタイ18章を続けて読んできました。それは、マタイが牧会的配慮のもとに、主イエスの言葉をまとめたものと言えましょう。マタイは、四つの福音書の中でも、特に、教会にいるわたしたちに対して、どのように教会生活を歩んだらいいのか、そういうことを、口をすっぱくして語っている聖書であります。ここのところ、18章で、主は、兄弟をつまづかせてはならない、あなたの手足、眼が罪を犯すより、それをなくしてでも命に入るほうが良いこと、小さい者を軽んじてはいけない、迷い出た1匹の羊を神は無事な99匹の羊をあとに残してでも、出て行って取り戻そうとされていることなどを示され、先週は、あなたに対して罪を犯した兄弟がいるとしても、その兄弟には少なくとも3回は、忠告して、教会に取り戻される機会が与えられねばならないこと、そのために、わたしたちが、互いに尽力しなければならないことが命じられました。本日のみ言葉は、それに続くものであります。「そのとき」、ペトロが主に質問したのであります。「主よ、私に対して、兄弟が罪を犯す場合、何度まで赦せばいいのでしょうか、7度までですか」。主は彼に答えて言われたのであります。「わたしは、7度までとは這わない、7を70倍するまでである」と。旧約に創世記に「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには77倍」とあります。旧約の時代には復讐は激しく行われ、またそれが認められたことがあったのですが、主は、7を70倍、すなわち490倍するまで、兄弟を赦すようにと、憎悪にかえて赦しを限りなく主は私たちにお求めになられます。先週の兄弟をいさめ、忠告することと、今週の限りなく赦せというみ言葉は、一見矛盾するようでありますが、両者は、レビ記に「同胞を率直に戒めなさい。そうすれば、彼の罪をおうことはない」とあり、引き続いて「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(19:17~18)とあるように、愛するということと、兄弟の罪を戒めることとは、共に神によってわたしたちに求められていることなのであります。
さて、主は、15章23節から35節まで、仲間を赦さなかったある主君の家来についての譬えを語られます。ある王が、その家来たちと、計算書を作って清算しようとするのであります。そのとき、1万タラントンの借金を王に対して負った家来が連れてこられます。そして、自分も家族も財産も全部売って、それを戻すようにと命じられます。彼は土下座し、ひれ伏しつついいます。「主よ、私の上に忍耐してください、全部戻しますから」。しかし、彼がそれをできるわけがありません。1万とは当時数えられる限りの最高の数を意味し、タラントンも金額として考えうる最高の額でした。主君は、憐れに思い、彼を赦し借金を免除してやったのです。ところが、彼は出て行き、100デナリオン、今の100万円ほど、自分に借金のある仲間にばったりあうと、捕まえて首を絞め、「借りを返せ」と詰め寄りました。仲間は、「ひれ伏して、待ってくれ、きっと返すから」と言うのに聞かず、彼を借金を払うまでと牢獄に投げ込んだのであります。この一部始終をみていた仲間たちは、ひどく心をいため、主君のもとにいって一切を明らかにしたのであります。主君は、怒り、この家来を呼び出して、「お前も、仲間に同じように慈悲深くしてやるべきではなかったか」と言って、拷問をするものへと彼を渡したのであります。わたしたちは、罪深いものであります。しかし、神が赦してくださっています。東京女子大学の学長をされ、成田空港の訴訟の仲介役を務められた故隅谷三喜男先生は、わたしたち(日本の?)クリスチャンは、日曜日だけの信者である。牧師もそうで、日曜日と他の日と二階建てに住んでいてべつべつの生活をしていると批判されているのを伺ったことがあります。しかし、そういう生活ではなくて、心から兄弟を赦し、教会で、また、家庭で、お互いに赦しあう生活に是非入りたいものであります。本日は、幸いにして、聖餐式があります。隣に並ぶ人の罪のためにも祈ってあげる、そういう群れとしてお互いに立ち、神の前に、主のみ言葉に堅く立つ信仰を、今日から1週間、再び求めていきましょう。人知ではとうていはかりしることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2005/10/02(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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