津田沼教会 牧師のメッセージ
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「心を一つにして」マタイ(18:15-20)
マタイ18:15-20、聖霊降臨後第19主日(緑)、2005・09・25
エゼキエル33:7-9、ローマ12:19-13:10

マタイによる福音書18:15~20
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


説教「心を一つにして」(マタイ18:15-20)
 
今週の福音の箇所、マタイ18:15-20は、先週の「迷える羊」の譬えにそのままつながっている部分であります。すなわち、迷える1匹の羊を探しに、羊飼い、すなわち、神は、また、神から遣わされました本日のこのみ言葉を語っている主イエスは、99匹の無事な羊を丘、すなわち安全な教会に残して、探しに行き、見つけたら、安全であった99匹以上に、その1匹のために喜ばれるのであります。
 「あなたに罪を犯した兄弟」とは、迷った羊だというふうに考えられるのであります。そしてそのような「小さい者の一人」でも、つまずくこと、罪に陥り、神から、信仰から離れていくことは、天におられる父なる神のご意志ではないのであります。
 主は、18勝の15節から35節までにわたって、兄弟が自分の犯した罪を悟り、また、わたしたちとしては兄弟を赦すべきことを、後半の喩えをもまじえながら、お語りになります。
 さて、「ある兄弟が、あなたに対して罪を犯したなら、まずその兄弟とふたりだけで、忠告しなさい」と、主はまず語り始められます。教会の中でも、兄弟姉妹どうしが、互いに罪を犯すということは、人間同士ですから、残念ながら、起こりうる事柄であります。教会は、ルターも言いますように、ある面では、「罪びとの集まり」であります。実際には本日ここに主が勧められているような、手順で、あなたへとあるいは私へと罪を犯した兄弟を悔い改めに導き、その兄弟を再び、得る、勝ち取るということは、非常に難しいことであります。具体的にはいろいろな場合が起こりうるでありましょう。しかし、主はいずれにしても、私たちの同じ群れの1匹の羊が道に迷ったことの例として、本日の場合をあげているのであります。
 そして、最初のこの手順でもし彼が、あなたの言うことに聞き従ったなら、あなたはその兄弟を得たことになる。教会の一員として、取り戻したことになるといわれます。しうかし、続いて、もし、聞き入れなかったなら、ひとり、あるいは、二人を伴って行きなさいといわれます。それは、旧約のレビ記などにも出てきますように、2、または3人の証人によって、そのものたちの口によって、彼らの語る証言、言葉によってすべてのことが確定されるためであるといわれます。さらになお彼が、彼らにも聞き従わなかったなら、最後は、教会に言いなさい。そして、教会のいうことをも彼が聞き過ごすなら、そのときには、彼を異邦人や徴税人として扱いなさい。それ以上は、交わりを失っても、あなたが彼の罪を負うことはなくなる、といわれます。そしてよくいっておく、あなた方が地上でしばることどもは、天上でもしばられてあるだろうし、あなたがたが、地上で解くことは、天上でも解かれてあるだろうといわれます。
そして主の御言葉はさらに続きます。「あなたがたによくいっておく。あなたがたがなんであれ、地上で心を一つにして、すべての問題について、要求するなら、天の父のもとから、それらのことは成るであろうといわれ、なぜならば、わたしの名へと、ふたり、または三人で集まるところには、私もまた、彼らの中においているであろう」、と約束されています。「心を一つにして」とは、シンフォニーという言葉から来ています。わたしたちは、罪人であり、復活の主が共にいてくださらねば、教会で「心を一つにして」、一つの音を奏でることは不可能であります。教会のすべての兄弟姉妹、新来者、求道者が、ひとりももれることがないように、ともどもに、祈りつつお互いに心を砕いていきたいものであります。祈ります。
 天の父なる神さま。私たち人間の外から、あなたのもとから、独り子であるキリストがこられて、私たちの罪を担ってくださり、十字架の死とご復活を通して、いつでも、また、どんなに小さい教会にあってもあなたとみ子が私たちと共にいてくださるようになりました。私たちの津田沼教会の群れである兄弟姉妹の一人をも失うことがないように、私たちを罪から遠ざけ、また、お互いにそれぞれの罪を光に照らし、取り除く働きをも担わせてください。キリストによって、アーメン。
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2005/09/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「心を一つにして」(マタイ18:15~20)
マタイ18:15-20、聖霊降臨後第19主日(緑)、2005・09・25
エゼキエル33:7-9、ローマ12:19-13:10

マタイによる福音書18:15~20
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


2005年9月25日(日)聖霊降臨後第19主日、主日礼拝午前10時30分より
説教題「心を一つにして」(マタイ18:15~20)渡辺賢次牧師
同日、教会学校9時30分より、説教渡辺賢次牧師「2、3人の祈り」

2005年9月25日(日)午後2時~4時、総武地区合同聖餐礼拝、津田沼教会にて
テーマ「神に向かって立とう」松田繁雄牧師(小岩教会牧師)説教
    礼拝後、西村陽平先生の作品展示・証し(津田沼教会員)
どなたでもご自由に出席下さい!
2005/09/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「小さい者をつまずかせない」(マタイ18:1~14)
マタイ18:1-14、2005・09・18、聖霊降臨後第18主日(緑)
エレミヤ書15:15-21、ローマの信徒への手紙12:1-8

マタイによる福音書18:1~14

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは、一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」


説教「小さい者をつまずかせない」(マタイ18:1~14)

 聖霊降臨後第18主日となりました。本日のマタイ18:1-14は、新共同訳聖書が示しているように、三つの部分からなっています。最初は、子供について語られます。二つ目と三つ目の段落は、「小さな者」についてであります。
 先週の福音からも、また、今日の語られた言葉の前には、ペトロが、弟子の代表として名が上げられていますので、12弟子のうちでは、ペトロが一番偉いのであろうかと、彼らは考えたかもしれません。その質問に答えるかたちで、本日の主の言葉が記されているのであります。
 主イエスは、一人の子供を、彼らの真ん中に立たせて言われました。ペトロは後の伝道旅行で、パウロも記していますように、妻を伴っていることがはっきりしていますから、 ひょっとしたら、ペトロの子供であったかもしれません。「この子供のように、自分を低くする者が、天の国では一番大きい、偉いのである」と言われます。子供は、自分の限界と無力を知っています。彼らは、原罪をもって生まれてきますので、罪がないということではありませんが、自分が親や大人たちの助けなしには生きられないことを知っています。天の国においては、そのように、自分を内的に低くするものが、一番偉いのであります。主は、このような子供たちを受け入れる人は、わたしを受け入れるのであるといわれます。そしてそれは、このあと、取り上げられる「小さな者」すなわち、主イエスを、また、その父なる神を信じようとしている、主イエスの「小さな弟子たち」の現実を思い起こさせる存在でもあります。
 続いて、主は、第二段落で言います。これらの私を信じる小さい者たちのひとりをつまずかせる者は、のどの周りに大きな石臼をかけて、広い海の底に沈められるほうがましであると。
 わたしたちは、聖霊によって導かれ、ついには洗礼を受けて、主の弟子となったものであります。そして、皆さんも、どのような方も初めは「小さな」信じる者たちでしかありませんでした。本日のみ言葉は、教会の指導者たちに限らず、すべてのキリストの弟子、信者に与えられています。そして主は、あなたの片方の手、片足、あるいは、片方の眼が、罪を犯すなら、切捨て、抉り出したほうが、全身、五体をそろえて、地獄の火に投げ入れられるよりは、不自由な体となってもそれで、命へと入るほうがよいといわれます。私たちは、罪を犯す存在ですが、主は、それによって、自分自身を失い、さらにそれが、小さい者をつまずかせることになることに注意を促しておられます。このつまずきとは、神から小さい者、弱くもろい、信仰にはいって、いまだ揺れ易いままの状態の信者たちを、父なる神と主イエスへの正しい信仰からそらせ、不信仰という罪に陥らせることであります。
 さて、最後に、主は、これらの小さい者たちを、天でその父を見上げている天使たちがいるのだから、つまずかせてはいけないといわれます。すべての信者に、どのように小さい信者たちにも、守護天使がいると、主イエスは教えておられます。そして、主はご自身が自分の十字架を背負って死なれ、今も弱い小さな弟子たちを探し出そうとしておられます。迷いやすい羊である私たちを、そしてとくに小さな弟子たちを守っておられます。その主にならって、私たちも、信仰に入って長くない兄弟たち、あるいは弱さをもっている信者たちを、憐れみ深い父なる神、そして主イエスのように、保護し、共々に育てていく責任があります。わたしたちもまた、今も弱い者同士でありますが、教会につながって強め合って生きたいものであります。そのためには、主のみ言葉に常によりすがって、底から離れずに歩んでいく必要があります。こうすべきであるというのではなく、今やっていることを地道に続けていくことが大切であります。アーメン。
2005/09/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「小さい者をつまずかせない」(マタイ18:1~14)
マタイ18:1-14、2005・09・18、聖霊降臨後第18主日(緑)
エレミヤ書15:15-21、ローマの信徒への手紙12:1-8

マタイによる福音書18:1~14

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは、一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

2005年9月18日(日)主日礼拝 午前10時半~11時半
説教「小さい者をつまずかせない」(マタイ福音書18章1節~18節)

同日 午前9時半~10時15分、教会学校、
説教:渡辺賢次牧師「こどものようにならなければ、天の国に入れない」
特に小学生までのこどもの礼拝と分級(お遊びなど)
2005/09/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスをだれと言うか」(マタイ16:13~20)
マタイ16:13-20、2005・09・11、聖霊降臨後第17主日、
出エジプト6:2-8、ローマ12:1-8

マタイ福音書16:13~20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちに命じられた。

説教「イエスをだれだと言うか」(マタイ16:13-20)

聖霊降臨後第17主日を迎えました。本日は、マタイの16:13-20が福音として与えられています。これは、フィリポ・カイザリア地方にやってきたときに、主イエスが弟子たちと交わしたやり取りから生まれたものであります。
主は、異教の地、フィリポ・カイザリア、すなわちパンの神という豊穣の神の崇拝が盛んであった地に来て、弟子たちに聞きます。「人々は何者だと人の子のことを言っているか」。弟子たちは答えました、「ある者たちは、洗礼者ヨハネだと、別の者たちは、エリヤだと、また別の者たちはエレミヤだと、あるいは預言者のひとりだと言っています」と。いずれも、偉大な預言者であります。人々は、主イエスを、そのような預言者のひとりとして一般に世に主がお現れになったその当時には考えていたのであります。
そのような一般の人々の考えに対して、主は再び聞きます。「ではあなたがたは、わたしをだれと言うのか?」このとき、ペテロが、「あなたこそ、メシア、生ける神の子です」と答えるのであります。しかしこの直後にも、ペトロは主のやがて来るご受難の運命を聞かされたとき、そんなことがあってはなりませんと答え、それに対して主によって、「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人のことを考えている」とまで叱責されるのでありますが、ここでは、主によって、非常にほめられているのであります。
「そのことをあなたに言わしたのは、肉と血すなわち、限りあるものである人間がそうさせた、そうすることができたのではなく、天におられる父があなたにそのことを啓示されたからである」と。そして主は言われます。バルヨナ・シモン、私はあなたをペトロ(岩)と呼ぶ。そしてその岩の上に私の教会を建てよう。陰府(よみ)の門どもも、それに打ち克つことはできない」、と。この時、ペトロは、ちょうど、アブラムがアブラハムとなり、神の約束によって、世界のすべての民の祝福の源になったように、新しい民、新しいイスラエルという共同体、ダビデ王の末裔から起こると考えられていた新しいメシアによって、選ばれて、この共同体、すなわち興されて行く教会のために大きな使命を、主イエスによって与えられたのであります。死の力も、これに勝利することはできないと主は約束されたのであります。そして、「あなたが地上で縛ることは天においても縛られてあるだろう、あなたが地上でとくことは、天でも解かれるであろう」と、主によって言われ、「あなたに天の国の鍵を授けよう」と約束されたのであります。
わたしたちは、日本の社会で、このとき以来ペトロに約束された使命を、小さいながらも受け継ぐものであります。教会は、終末のときまで、生と死を超えて、罪を赦し、あるいは逆に罪をとどめたりすることなど「縛り、かつ、解く権能」を与えられているのであります。
 私たちの生きている現代の世界も、当時のフィリポ・カイザリアに似て、多くの神々や無神論、あるいは人間の理性でどうにでもなるといった人間中心の生き方が世界中に広がっている世界・社会であります。しかし、わたしたちは、神の側から遣わされた主イエスこそ、旧約聖書においてダビデ以降待たれてきた、王的メシアであり、私たちの罪のために十字架におつきになる生ける神の子であると、少数者ながらもすべての人々に証する生活を求められているのであります。それに反する多くの闇が、今なお私たちの生活の周りを覆っています。しかし、主イエスこそ、人となった神であります。それ以外には私たちの罪を解決する道は与えられていないのであります。多くの誘惑や困難にいつ負かされるとも限らない弱い私たちであります。しかし、日ごとに悔い改め、み言葉に立ち返り「主イエス、あなたこそ、メシア、油注がれた待たれた方、救い主です」とペトロと共に答えるしっかりした信仰に私たちも生かされたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
2005/09/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「イエスをだれと言うか」(マタイ16:13~20)
マタイ16:13-20、2005・09・11、聖霊降臨後第17主日、
出エジプト6:2-8、ローマ12:1-8

マタイ福音書16:13~20
 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、弟子たちに命じられた。


2005年9月11日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝(緑)
説教題「イエスをだれだと言うか」(マタイ福音書16:13~20)

同日午前9時半~10時15分
教会学校(こどものための礼拝とお遊び・分級)
聖書、さんびかなどは教会に備えてあります。おこづかいのなかから、いくらでも
いいですので、献金をお持たせください。お母さんなどの同伴も歓迎します。

2005/09/11(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「大きな信仰」(マタイ15:21~28)
マタイ15:21-28、2005・09・04、聖霊降臨後第16主日(緑)
イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36

マタイによる福音書15:21~28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

説教「大きな信仰」(マタイ15:21-28)
 
聖霊降臨後第16主日となりました。私たちは、今年度、すなわち、去年の教会暦のアドベントの12月の頃から、マタイ福音書を中心に一年の教会暦を送っています。本日のマタイ福音書15:21-28は、カナンの一婦人との主イエスの出会いの出来事であります。マルコ福音書にも、同じと思われる出来事がその7:24-30に出ていますが、よく照らし合わせてみるといろいろな違いが分かります。しかし、本日は、マタイの箇所に沿ってもう一度、この日の出来事を思い起こしてみましょう。主イエスはそこから出て、とありますが、どこからかは、よく分かりません。先週の舟で嵐の後に着いたゲネサレトの地、ガリラヤ湖の西側、カファルナウムやもしろデベリアスのあるあたりからだったかもしれません。そこから、チルスや、シドンのほうへと、難を逃れて向かったようにも思われます。主イエスご自身は、イスラエルの地からは、生前は、成長してからは出なかったかもしれません。当時のティルスやシドンの勢力が発展して、ガリラヤの北部、フィリポ・カイザリアのあたりまで、進出していたのかもしれません。とにかく、難を逃れてそちらに向かっていた時とも考えられます。すると、カナンの出身の女、すなわち異邦人の一人の婦人が、主に向かって「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください、エレーソン・メと助けを求めたのであります。
私たちの礼拝の意味も、この女性の叫んだ「主よ、私たちを憐れんでください」と言う言葉に尽きるかもしれません。式文の「キリエ・エレーソン」とは、このときの言葉であります。しかし、このときの主は何もお答えになりません。それで、弟子たちが、「後ろから叫んでいますので、追い払ってください」と要求します。主は、「私はイスラエルの家の失われた羊たちのところにしか、遣わされなかった」と言います。しかし、この女性は、さらに大声で、「主よ、助けてください。私の娘が悪霊に苦しめられています」と繰り前します。主は「子どもたちのパンをとって子犬に投げてやるのはよろしくない」といつもにないそっけない返事です。女は、「はいそうです、しかし、思いますのに、子犬たちも、その主人たちの机から落ちるパンくずはたべるのです」と答えました。すると、主は、ついに、その女性に譲らざるを得なくなります。「おお、婦人よ、あなたの信仰は大きいなあ!あなたがの望むように事がなるように」とついに折れました。そのときから、その娘は癒されたのであります。
これと同じような出来事を皆さんは他の福音の箇所で思い出すのではないでしょうか。そうです、百卒長の異邦人がそのしもべのために、懇願しに来る箇所であります。
救いは、まずイスラエルの民から始められねばなりませんでした。旧約聖書を与えられたのは、世界において、この小さな民のユダヤ人たちでした。私たち日本人もまた、ユダヤ人ではありません。しかし、ユダヤ人たちから救いは始まるのであります。しかし、そのおこぼれから、私たちも救いに与かることができたのであります。ですから、私たちは、決してユダヤ人たちに対して、誇ってはなりません。今もユダヤ人たちは、救いの計画の中にあります。
今日は聖餐式がこのあとあります。それは、本日のカナンの女と同じ立場でいただくものであります。本日の女性は、主から「あなたの信仰は大きいなあ」と感嘆されました。私たちの信仰は小さい、不安定なものでありますが、絶対の信頼を主イエスに寄せる時、主は私たちに対しても、「ああ、あなたの信仰は大きいなあ」と受け入れてくださるのであります。すべての悩み、重荷を主にさらけ出して、新しい1週間へとここから出て行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように!アーメン。




2005/09/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「大きな信仰」(マタイ15:21~28)
マタイ15:21-28、2005・09・04、聖霊降臨後第16主日(緑)
イザヤ書56:1-8、ローマの信徒への手紙11:25-36

マタイによる福音書15:21~28
 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

2005年9月4日(日)主日礼拝、午前10時半~11時45分
説教「大きな信仰」(マタイ福音書15章21節~28節)聖餐式あり

同日午前9時半~10時15分
教会学校(こどものための礼拝と分級・おあそび)
聖書やさんびかは教会にあります。お母さん等の同伴も歓迎します。
礼拝の中で献金があります。お小遣いの中からいくらかでもお持たせください。
2005/09/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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