津田沼教会 牧師のメッセージ
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「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)
マタイ14:22-33、2005・08・28、聖霊降臨後第15主日(緑)
列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24、

マタイによる福音書14:22~33

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

説教「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)
 この残暑がまだまだ残っていますときに、私たちは8月の最後の日曜日、聖霊降臨後第15主日を迎えています。そのために、私たちに与えられている福音書の箇所は、マタイ14:22-33であります。先週の5000人への供食の記事に続いて、この真夏にふさわしい主イエスと使徒ペトロのガリラヤ湖での水上歩行と言いましょうか、通称「海」とも呼ばれていますその上を歩き回るという不思議な出来事の箇所が与えられているのであります。また、第一の日課では、列王上19章の1節から21節までの、エリヤがアハブ王の后イゼベルの追っ手を逃れて、シナイ山まで進み、ついに神の小さなささやきを聞いて、また、預言者としての使命のために、戻っていくという記事が与えられています。私たち、キリスト者が社会の厳しい現実の中で、どのように耐え、あるいは歩むべきかが、そこでも示されているのではないかと思います。
 特に、いつものように、福音書の記事を通して、その出来事が私たちにとってどのような意味があるのかをしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、先ほども言いましたように、本日の福音書の記事は、5000人への供食にそのままつながっている記事であります。その出来事は、使われている言葉などから、マタイの記者は、どうも聖餐の設定、聖晩餐の意味を私たちに思い起こさせるものだと先週はご一緒に考えさせられたのであります。
 さて、本日の出来事も、脈絡からは同じ夜に起こったものとして記されています。先週の出来事が、出エジプト記の荒れ野での40年間、マナという天からの糧をえて、約束の地に帰ってきた出来事と比較されるのに対し、本日の主イエスの湖上の歩行、また、短いながらも、同じように、海の上、水の上を歩行したペトロの出来事は、同じく出エジプト記のイスラエルの民の葦の海が干上がらされて、そこを徒歩で横断できた出来事を思い起こさせます。ただし、それなら、順序が逆になってしまいますが。しかし、マタイは、福音書の始めから、モーセとイエスを対にして考えており、しかし、イエスは、モーセよりもはるかに偉大なモーセと言いましょうか、旧約聖書の時代から待たれていたメシアとして、対比しながら描いています。
 さて、本日の出来事をもう一度、思い起こしてみましょう。「遅くなった時」、イエスは、弟子たちに自分より先に向こう岸に渡るようにしきりに招きます。そして一方で、群衆を解散し、ご自分は一人だけで、祈るために山に上られます。迫ってくる受難のときに備えるためだったのでしょうか。あるいは、弟子たちに湖上で起こることを知った上であえてそのことのために、ご自分は後に残られたのでしょうか。一人、山に上られる主イエスはここでも、イスラエルの民を後に残して、シナイ山に一人で上ったモーセを思い起こさせます。
 さて、弟子たちの舟は、岸をはるかに離れていましたが、波によって苦しめられていました。それは、激しい向かい風だったからです。そして、夜明けごろ、すなわち、第四の見張りの頃、午前3時から6時にかけてですが、主イエスは歩き回りながら、彼らに向かって海の上をやって来ます。弟子たちは、おそらく主イエスの幽霊である、あるいは幻影であると思って、恐れから大声をあげます。
 そのとき、主イエスは、「安心しなさい、勇気を出しなさい。私である。恐れることはない」と言われました。旧約聖書では、主なる神以外に海上の波の上を踏み砕く方はおられないと考えられていました。そして、海とか大水は、得体の知れない混沌・カオスを表し、人間にとっての悩みや苦しみなどをも象徴するものと考えられていました。
 「私である」という言い方は、モーセが会うことができた神がわたしは「ありて、ある者」と言われた言い方で、「いつも私たちと共にいてくださるお方」という意味とも考えられています。主イエスは御自分をそれと同じように表現されたのであります。
 そのとき、ペトロが言いました。「主よ、あなたでしたら、私をあなたのところまで同じように歩いてやってくるようにと命じてください」。主イエスは「やってきなさい」と言われました。ペトロは、主のもと、大水のほうへと歩き始めます。しかし、激しい風を見て恐ろしくなり、沈み始めました。そして「主よ、助けてください」と大声で叫びます。主はすぐに、手を伸ばされ、彼を捕まえました。そして、「何へと疑ったのか、信仰の小さい者よ」と言われました。そして、彼らが舟へと上がると、風は静まります。船の中にいた弟子たちは言います、「本当に、あなたは神の子です」と。マタイの弟子たちは、「信仰が薄い者たち」と主に叱咤激励されることはありますが、しかし、主を「神の子、メシアである」と理解し、告白することのできる弟子たちであります。
 この世の混沌としたもの、どろどろとして掴み難いもの、それを征服できる方は神から来られた独り子主イエスのみであります。弟子たちはそのことを理解できました。しかし、ペトロの浮き沈みは、私たち、キリスト者の現実そのものであります。わたしたちの罪を克服し、解決できる方は、このお方以外には、私たち人間には与えられていないのであります。主が舟に乗り込まれると、激しい風や波は治まりました。この舟とは私たちがつながっています教会を表しています。このお方と共に歩むなら、大水も、海も、悩みもどんな困難も克服していくことができます。「私はもうだめだ」と感じる時がありますが、主イエスはそんなときにも、私たちが信頼していく限り、逃れの道をも備えてくださいます。「私である、恐れるな」との主のお言葉に改めて信頼しつつ新しい1週間を始めたいものであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 



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2005/08/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)
マタイ14:22-33、2005・08・28、聖霊降臨後第15主日(緑)
列王記上19:1-21、ローマの信徒への手紙11:13-24、

マタイによる福音書14:22~33

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

礼拝 8月28日(日)午前10時半~11時半
説教「主が立ち上がらせた者」(マタイ14:22~33)渡辺賢次牧師

教会学校(子供のための礼拝)、説教 渡辺賢次牧師
同日、午前9時半~10時15分、子供さんの年中を通しての礼拝と分級(お遊び)
聖書、さんびか、などは教会においてあります。礼拝の中で献金があります。
   お小遣いのなかから、いくらかでもお持たせください。

2005/08/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「朽ちない食べ物」(マタイ14:13~21)
マタイ14:13-21、2005・08・21、聖霊降臨後第14主日(緑)
イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5

マタイによる福音書14:13~21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

説教「朽ちない食べ物」(マタイ14:13~21)
 
聖霊降臨後第14主日に与えられているの福音の記事はマタイ14:13-21であります。いわゆる5000人への給食の出来事であり、四つの福音書は、いずれもこの重大な奇跡の出来事を記しています。マタイ福音書の記事に従って、本日の出来事の意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 マタイ福音書では、洗礼者ヨハネがヘロデ・アンチパスによって処刑されたという報告を聞いて、主は、ひそかに、船に乗ってさびしい場所、人里はなれた場所へと退却なさいます。それは、ヘロデの管轄区外のガリラヤ湖の北東、ベッサイダの近くであったかもしれません。しかし、それを知った群衆たちは、町々から、陸路で、彼についていったのであります。そして、主は船から出られると、群衆たちのことで深く憐れまれます。これは、もとの文ではおなかがうずくという特別な言葉で、私たち人間には使わない、主イエスと神にしか用いられない字が使ってあります。神の私たちへの憐れみの深さを考えさせられる言葉です。それは、マルコにはあるように、「飼い主を持たない羊のような」有様の人間たちに対して使われているのであります。 そして、主は彼らの中の病人たちを癒されたとあります。
やがて、夕方、夕食のころになったとき、弟子たちが主イエスのもとに来て言います。「この場所は、人里離れた場所です。群衆どもを、解散させてください。時は過ぎました。そうなされば、彼らは、村々へと出て行って自分たちで食物を買うことでしょう。」
 主はそれに対して言われます。「彼らは出て行く必要を持っていない。あなた方自身が彼らに食べることを与えなさい。」弟子たちは、答えます。「私たちはパン五つと魚二匹しか持っていません。」
マタイで出てくる弟子たちは、マルコとは違って、無理解な弟子たちではありません。ただ、ここでは、信仰において彼らは足りなかっただけであります。主イエスは、群衆を座らせ、天を仰ぎ、感謝し、父なる神をほめたたえ、すなわち「賛美の祈りを唱え」そのパンを裂き、弟子たちに与えました。そして弟子たちが、群衆どもに与えたのであります。  
彼らはみんな食べ、満腹したのでありました。そして、彼ら、すなわち弟子たちは、 残ったパンくずで満ちた12の籠を取り上げたのでありました。そして、食べた者は、女と子供のほかに、男およそ5000人であったというのです。
 困窮した女の人を、旧約に出てくる預言者のエリヤやエリシャが、尽きない瓶の粉や油の壷で満たして助けた話しが思い起こされます。また、列王記下4:42-44では、主として貧しいものの食物であった大麦パン20個などで、エリシャが100人を満ちたらせ、食べ残りがあったという記事は、本日のマタイの記事とよく似ています。
 けれども、本日の出来事と、マタイ26:26以下の聖餐の設定は、それら以上によく似ています。マタイは、本日の出来事を、終末のときに迎えるメシアの大宴会に私たちも与かりうることを思い起こしながら、聖餐設定の出来事と対比させながら、この記事を書いたのであります。マルコよりもはるかに簡略で、そのために無駄な不必要な事柄は省略されています。
 主イエスには群衆への憐れみは、確かにあったでしょう。しかし、物質的な満足はそれだけのものでしかありません。ここに記されている出来事は、朽ちることのない永遠の命をこの聖餐の設定に類似の出来事によって、主はすべての人に差し出しておられるのではないでしょうか。聖餐式のときには、パンとぶどう酒であります。ここでは、パンと魚であります。けれども、主がご自身の体を、多くの人々のために、すなわち、すべての人々のために与えられるのであります。ゆくゆくはもちろん、主は十字架の死を通して、罪のあがないとして、ご自身を差し出されるのであります。主イエスが差し出されるそのパンは、朽ちることのない、いつまでも、私たちを生かし、罪から解き放つ、永遠の命へのまことのパンであります。弟子たちは、聖餐の設定後に、また、主のなきあと、本日の出来事を鮮明に思い出し、そして主が与えられたこの奇跡の出来事を語り継いでいったのであります。
 人間のうちには、決して救いの契機はありません。神にのみ、また、その独り子主イエスの死を通してのみ、わたしたちは、罪から解かれ、まことの謙遜を得ることができるのであります。
祈りましょう。
 繰り返し、多くの罪を犯す私たちでございます。しかし、あなたは、私たちに朽ちることのないパンを、主イエスによって、与えてくださいました。私たちがどんなことがあっても生涯それに望みをおき、常に、主イエスのお言葉となさった御働きに信頼していくことができますように。感謝して、キリストのみ名によって祈ります。アーメン


2005/08/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「朽ちない食べ物」(マタイ14:13~21)
マタイ14:13-21、2005・08・21、聖霊降臨後第14主日(緑)
イザヤ書55:1-5、ローマの信徒への手紙9:1-5

マタイによる福音書14:13~21
 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

2005年8月21日(日)午前10時半~11時半礼拝
説教「朽ちない食べ物」
聖書や礼拝で使う式文や讃美歌は教会においてありますので、特に持参する必要はあいません

教会学校同日8月21日(日)午前9時半~10時15分
子供のための礼拝、お母さんやご父兄の同伴も歓迎します。お小遣いのなかから、いくらでも、献金をお持たせください。
2005/08/21(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の国という宝を求めて」(マタイ13:44~52)
マタイ13:44-52、2005・08・14、聖霊降臨後第13主日
列王記上3:4-15、ローマ8:31-39

マタイ福音書13:44~52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

説教「天の国という宝を求1めて」(マタイ13:44~52)
 
聖霊降臨後第13主日を迎えました。私たちは今年は、マタイ福音書を主たる福音書として、マタイの記事から、学んでいます。本日の箇所マタイ13:44-52は、マタイ福音書にしか出てこない記事であります。このお盆を前にしました時期に、私たちは、親戚、親兄弟などに出会うことも多い時期でありますが、そういった人々と親密に交わるときに、あらためて、主イエスが語った天の国とは、どういうものであるかを考えることは、意義のあることであろうと思います。主イエスは、本日の箇所でまずこう言われます。「天の国は畑に隠されている宝と同質的である、すなわち、ある人がそれを見つけた後、隠して、彼は喜んで出て行き、自分のすべての持ち物を売って、それを買うのである」と。
その畑の持ち主はどういう地位にあったのか、この宝を見つけた人は、不道徳あるいは不法なことをしているのではないか。しかし、そういう背景となる事情については、主イエスは何も言われていません。主イエスの譬え話し、中でも特に天の国の譬えは「到来」、「逆転」、そして「活動」の3つに分けられると考えた学者がいます。この「畑の中の宝」という第一の天の国のたとえは、天の国の到来あるいは、そこで起こる逆転、さらには、この畑を買うという活動も意味されていると考えられるでしょう。
天の国、すなわち神の支配というものは、まずは、私たちの目から、隠されているものだということが分かります。私たちに、天の国は、接近し、あるいは既に与えられているのですが、多くの人の目からは隠されていて、気づかないのです。天の国は、主イエスと共に到来しました。しかし、2000年近くも隔てた今も尚、多くの人々の目には隠されているのであります。しかし、それを見つけた人は、それを得るために、自分のほかのすべてのものを売り払ってでも、喜んで得ようとするものなのであります。
第二の譬えはこう言われます。「また、天の国は、次のような商人の人と同質的である、たとえられる。その人は、良い真珠を求めていたのだが、非常に価値の高い真珠を見た後、出て行って、自分の品物全部を売り払った、そしてそれを買ったのである」と。
天の国は、この真珠商人のように、一つのすばらしく価値のあるものを得るためには、必要なあらゆることを行うことが要求されてくるものであります。神の支配を私たち自身のうちにもたらすためには、世界で最も高価な、今の時代で言えば、ダイヤモンドにもあたるようなものであった真珠を得るために、この商人は何も厭わないで、必要なことをことごとくやったのであります。
「また、天の国は、引き網と同質的である、彼らはそれを海に、あるいはガリラヤ弧に投じた、そして、そのいっぱいになった網を猟師たちは、岸辺へと引いてきて、腰を下ろし、良い魚は器に入れ、悪いもの、無価値なものは、外へと投げ捨てた」というのであります。
これは、最後の審判における裁きを意味しています。主イエスは「終りのとき、すなわち、完成の時においても、その譬えのようであろう。すなわち、天使たちがやってきて、正しい者たちの只中にいる悪い者たちを外へと取り出し、火の燃え盛る炉の中へと、えり分けるであろう。そこには、泣き喚きと歯の歯軋りする音があるであろう」と悪い者たち、すなわち、天の国を、また主イエスを、信じなかった者たちの終りの日の定めを説いて、主は私たち弟子たちに警戒するよう戒めておられるのであります。
そして、最後の13章の51節と52節は、「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」と弟子たちに言われるのであります。「これらのこと」というのは、13章の始めから語られた譬えのすべてを指しています。彼らは「はい」と答えます。マタイ福音書の弟子たちは、主イエスの言われることを、理解することができる弟子たちであります。マルコでは、弟子たちは主イエスの言われることが生前分からず、躓いてばかりいるのでありますが、マタイの福音書の弟子たちは、主イエスの真意を理解できるということが大きな特徴になっています。
そして、主は言われました。「天の国の真実に対して、同質的なのは、これらのことを学んだ学者たちであり、その者たちとは、一家の主人に譬えられ、その主人とは、自分の蔵から、新しいものどもと、古いものどもとを自由自在に、おそらく客のために取り出すことができるのである」と主は本日の箇所で最後に言われました。
新しいものが先に書かれているのは、新しい教え、すなわち例えば新約の教えが優先的に考えられており、古いものどもとは、旧約の教えが考えられているとも言えましょう。マタイ自身が、新しい福音のことを学んだ学者でありました。あるいはこの一家の主人とは主イエスご自身のことでもあると言えましょう。
確かに私たち信者のすべての者が聖書の学者ではありませんが、主イエスのお言葉を通して、またそれを説く牧師の説教の働きや信仰の先輩の日常の証しなどを通して、私たちは天の国という得がたい、貴重な宝を見つけ出し、自分のものにしていくことができるのであります。それをまた、この日から新たに求め続けていきましょう。
祈りましょう。
天の恵み深い父なる神さま。
私たちは、思い通りには生活も進まず、罪を繰り返す弱さを持っていますが、天の国、神の支配という宝を既に一人ひとりが見出しているものであります。どうか、主イエスのお言葉を通して、日々悔い改めながら、この宝を見失うことなく、一生を進んでいくことができるように励まし導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。



2005/08/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の国という宝を求めて」(マタイ13:44~52)
マタイ13:44-52、2005・08・14、聖霊降臨後第13主日(緑)
列王記上3:4-15、ローマ8:31-39

マタイ福音書13:44~52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

説教「天の国という宝を求めて」
8月14日(日)午前10時半~11時半

同日8月14日(日)午前9時半~10時15分
教会学校(こどものための礼拝・お話とあそび・分級)どのお子様でも出席できます。
*おこづかいの中から、神さまのためにささげる献金をご自由にお持たせください。
*おかあさんなどの同伴も歓迎します。聖書などは教会においてあります。

2005/08/14(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「怒りのこぶしをおろして」(ミカ書4:1~5)
ミカ書4:1~5、2005・08・07、平和主日(赤)
エフェソの信徒への手紙2:13~18、ヨハネ福音書15:9~12

ミカ書4:1~5
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。


説教「怒りのこぶしをおろして」中川俊介牧師

 誰もが平和を願っています。しかし、誰もが平和を享受しているわけではありません。今年は第二次世界大戦終結後60年ということで、平和の事が考えられています。歴史を見ますと、1900年から1950年までの50年で4千万人の方が戦争で亡くなり、大きな戦争がなくなった1950年から2000年までの間でも3千万人以上が小さな戦争の犠牲者になっているそうです。ですから、私たちは60年という節目だけでなく、いつも平和のことを考えていく必要があると思います。特に聖書は、イエス・キリストを平和の使者として、今日の聖書日課でも教えています。

 平和運動を続ける人は、私たち一般の者と違って熱心です。イエスの弟子にも熱心党のシモンという人がいたと聖書にあります。もう亡くなった方ですが、長崎ルーテル教会の岡先生が平和問題に熱心でした。私も夏に岡先生の平和セミナーに参加したことがあります。もう20年以上も前の事ですから、覚えているのは本場の長崎チャンポンがおいしかったことくらいです。ただ一つだけ印象に残っていることがあります。ある入管法の戦いを続けてきた人が、熱心党であることの危険を述べていました。不利な立場に置かれた在日外国人に対する政府の役人の態度は、本当に冷たくて無慈悲なんですが、熱心な活動家は彼らを非難しがちであるし、最低の人間だと考えてしまう。すると相手もさらに態度を硬化させてしまう、というのです。だから、そんな場合でも、互いに弱い人間として認め合い、忍耐をもって訴え続けていくのが大切だと発言していました。確かに入管法問題ではこの方法が成功をおさめ、在日外国人の処遇もずいぶんと改善されたと聞いています。

 さて、私たちが平和を実現したいと思うときに、それはとても長い道程に思えます。ところが、聖書は十字架によって敵意は滅んだ、平和はすでに実現したと宣言しています。

 キリストの人生にも二度ほど敵意と向かいあう時がありました。ルカ9:54以下で、ヤコブとヨハネが天からの火でサマリヤ地方の不敬虔な人々を焼き殺してもらおうと、提案したとき。もう一つの場合は、ルカ22:49以下で、イエスが裏切られて捕まりそうになったとき、弟子たちが、主よ剣で切りつけましょうかと提案したとき。どちらの場合も相手が悪いのであって、イエスの側に落ち度はないのです。こちらが怒っても当然の場面です。しかし、イエス・キリストの答えは、「やめなさい」でした。熱心さは怒りを生み、怒りは憎しみに、憎しみは殺意にまで変わりうることを、イエスはよく知っていました。歴史はまさに繰り返しです。私たちもどこかで、こうした立場にたたされることがあります。それが試練です。心の中で相手を否定したくなる。「焼き殺してもらいたい」とさえ思う場合もないとは限らない。そして、その滅ぼしてしまいたい存在が、夫であり、妻であり、親であり子供であり、兄弟親戚であり、親しい友であるかも知れない。

 誰もが平和を願っているのに、結果は暴力と憎しみ。怒りのこぶしがどんどんつきあげられていく。私たちは思います。自分は悪くない、相手が悪いのだ。また、怒りに燃えるときに、私たちも熱心党になる危険をはらんでいます。あるいは、疑い深いトマスのように、冷たく、部外者のような立場を取る場合もあるかも知れません。

 どうしたらいいのでしょうか。聖書は答えをだしています。ヨハネ8:1以下で或る女が不倫の罪で捕縛されたとき、皆が怒りのこぶしをあげていた。しかし、イエスは説得しなかった。平和を説かなかった。許しさえ説かなかった。寛容な心を訴えなかった。理性に訴えるものは、この世の知恵だからです。人間という存在から出てくるものは、人間の根本問題を救うことはできない。ですから、イエスはこう答えた。誰でも自分が罪を犯したことのない者がまず、処刑の石を投げなさい。その時、一人また一人と、怒りのこぶしをおろしていきました。天からの啓示というのでしょうか、罪の自覚がうまれたのです。

 宗教改革者ルターは罪の自覚を生涯持ち続けたことで知られています。彼の偉大な点は、いや、神のルターにおける偉大な奇跡は、罪の自覚を信仰の根本にしたこと。自分が正しいと思っている人間ではなく、あるいは自分の力で平和が実現できると思っている人間ではなく、自分は徹底的に無力であること。怒りや憎しみの力、悪魔の誘惑に負けてしまうこと。神なしには生きられない存在であるという、そのハッキリした自覚というものがあったのです。

 ルターは1522年の説教で言っています。「人は自分には絶望し、神のみを信頼しなければいけない。つまり、自分のすべてをキリストに渡し、キリストを心から受け入れなければならない。そのことによって、キリストのもっているすべてがあなたのものとなり、あなたのすべてがキリストのものになる。このことによって、あなたは新しく生まれ変わる」。

 それは、今日の福音書にあるキリストの愛の発見ということです。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と書かれてある。キリストの喜びと平和がみなさんの喜びと平和になると宣言されている。これを信じたい。信じない者であり続け、苦しむ者としての生涯を選ぶのではなく、信じ、平和の人として新しく歩みたい。キリストの愛を信じて。

 では、なぜキリストを信じることで平和が実現するのか。それは今から2700年前に記された本日の日課であるミカ書にすでに預言されている。怒りの武器である剣が、平和の道具である鋤(すき)になる。キリストが到来されたことにより、また、その十字架の犠牲によって神が人を和解してくださった。この和解によって、神がキリストを信じる者をもはや決して裁かない。処罰することはない。この永遠の約束、永遠の契約が成立した。だから、今後、世や社会が裁くことはあっても神は裁かない。この和解は永遠であり無条件だからです。そうでなければ、私たちはいつも、神の機嫌をとろうとしてビクビクしていなければならない。

 このキリストの和解というのは、律法の廃棄ともいえます。ともすれば熱心党になりやすい私たちは、自分の立てた規則、戒律、こうであるべきだという律法によって、人を裁いてしまいます。キリストはそれに終止符をうたれた。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」とエフェソ書にある通りです。キリストの贖いによって、キリストを信じる者は、神と和解し、律法の壁が消えたのです。神からも裁かれない、自分も裁かないという平和の境地に置かれるのです。そしてこの恵みを信じた者は、平和の使者とされる。人と人との間を隔てる律法の壁を取り除くことができる者として新しく創造される。それは、自分の力でなくキリストの十字架の和解を信じるすべての人に与えられている、恵みです。

 人間が考えついた事柄は人間とともに、時代とともに滅びる。しかし、神の与えたもう平和はこの世が奪うことも、取り去ることもできない。戦後60年。これからも、争いや戦争はあるでしょう。しかし、イエス・キリストは既に究極の平和をもたらしてくださっています。私たちは、この平和を信じていきたい。

 最後に一言。神の平和が訪れるとき、試練も起こります。この世に働く悪の力は、偽りの信仰や単なる形式の信仰は無視します。しかし真実の信仰が生まれるとき、それを見逃すことはできない。試みがきます。裏切り、憎しみ、事故、病気、挫折に巻き込まれるときがあります。しかし、それは、信仰者にとっては試練ではなく、己の弱さを知り、さらにキリストに結びつく機会であり、恵みの機会です。なにがあっても大丈夫。なにがあっても、キリストが共にいてくださることによって、すべては平和と喜びの機会となるでしょう。
 アーメン
2005/08/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「怒りのこぶしをおろして」(ミカ書4:1~5)
ミカ書4:1~5、2005・08・07、平和主日(赤)
エフェソの信徒への手紙2:13~18、ヨハネ福音書15:9~12

ミカ書4:1~5
終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下
いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと
万軍の主の口が語られた。
どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに
我らの神、主の御名によって歩む。

2005年8月7日(日)礼拝午前10時30分~11時45分
説教「怒りのこぶしをおろして」中川俊介牧師
この日は日本福音ルーテル教会の、平和を覚えての礼拝です。

同日、教会学校礼拝、午前9時半~午前10時15分
教会学校は、主として幼少の子供から小学生までを対象とした礼拝と分級(遊びなど)
どこのお子様でも歓迎いたします。
2005/08/07(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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