津田沼教会 牧師のメッセージ
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「種がまかれた四つの土地」(マタイ13:1~9)
マタイ13:1-9、2005・07・31、聖霊降臨後第11主日(緑)
イザヤ書55:10-11、ローマの信徒への手紙8:18-25、

マタイによる福音書13章1節~9節
 
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まってきたので、イエスは船に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは、百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」


説教「種がまかれた四つの土地」(マタイ13:1~9)
 聖霊降臨後第11主日に与えられています福音は、マタイ福音書13章の1節から9節であります。マタイ福音書11章には、七つの天の国の譬えが収められています。そして、本日の福音書の箇所は、その第一番目の譬えであり、共観福音書と呼ばれます他のマルコにも、ルカにも記されていますが、その中でもマタイは、非常に練られた文体といいますか、整えられた文章となっています。この時期に、この箇所が与えられている意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、今日の福音書の出来事また、主イエスの語られたお言葉、譬えについて、思い起こしてみましょう。それは、こういうものでありました。主イエスは、その日に、家を出た後、海のそばに、座っておられました。すると、大勢の群衆が集まってきたので、船に乗り込み、そして、座られたのであります。そして、多くのことを、譬えにおいて、まずはこうお語りになりながら、しゃべられたのであります。
「見よ、種を蒔く人が、種蒔きに出て行った。そして、ある種どもは、道に沿って落ちた。すると、鳥どもがやってきて、ついばみ、それらを飲み込んだ。また他の種どもは、石の多い土地どもに向かって、落ちた。それは土の深みを持っていないので、すぐに上に芽を出した。それから、太陽が昇り、それは、焼き付けられ、なえてしまい、枯れてしまった。また、別の種どもは、茨どもに向かって落ちた。そして、茨が伸びてきて、それらを窒息させた。また、別のものどもは、良い土地に向かって落ちた、そして、あるものは100倍、あるものは、60倍、また、あるものは、30倍の実を結んだ。耳のあるものは聞くがよい」と。
 主イエスは、群集に向かっては、このように多くのことを譬えで語られたのであります。この譬え、パラブレという言葉は、多くの意味を持っており、ことわざとか、謎とか、比較とか、本日の場合のように、自然や日常生活を使って語られる物語をさすこともあります。主イエスは、旧約聖書にのっとり、あるいは、当時のラビたちがよく用いた表現として、この「譬え」というやり方で、群集に向かって教えを説いたのです。本日の種を蒔く人の譬えは、いろいろな解釈ができると思います。み言葉は、主イエスによって、あるいは、神によって、すべての人に蒔かれています。しかし、大切なことは、そのみ言葉を聞いて、行うことであるということを、主イエスはお教えになっておられると、考えることが出来ます。また、神の国の成長あるいは終末のときの収穫を表わすものとして、この譬えを主は語っておられるとも考えることが出来ます。この譬えが示すように、神の国は、すべての人へと与えられていますが、それは、失望や挫折や失敗に出会います。しかし、そのような多くの困難にもかかわらず、最終的には、神の国、天の国は、奇跡的とも思われる多くの実を結ぶ収穫に到達するものとして、この譬えを考えることもできます。
 私たちは、本日の譬えから何を受けることが出来るでしょうか。私たちは、既に、神の言葉、主イエスの言葉を聞いて、承知している者であります。しかし、なんと、私たちは、み言葉からすぐに離れやすい者でしょうか。マルコは、良い地に落ちて実を結んだ種をあるものは30倍、あるものは60倍、あるものは、100倍の実を結んだとなっていますが、マタイは、あるものどもは、100倍、あるものどもは、60倍、あるものどもは30倍の実を結んだとしています。四つの土地にまかれた種は、そのうちの三つの場所では、結局は実を結ぶことは出来なかったのですが、マルコのほうが、ある程度種が生き延びた順序としては、30、60、100倍と道の上、石地、藪のなかでの成長といいますか、生き延びた程度にあっているようにも思われます。
 しかし、マタイは、人の思いを超えて、神さまがなされる奇跡的な神の国の成長、収穫を示すものとして、逆にして、100倍、60倍、30倍にもなった種どもについて語りたいのでしょうか。
 本日のイザヤ書の言葉にもありましたように、神の降らされる雨や雪は空しく、天に帰ってくるようなものではなく、神の言葉もむなしく天に帰ってくるようなものではありません。それは、必ず実を結ぶのであります。私たちはそれを信じることが大切であります。
 本日の譬えを聞いていた群衆は、何を理解することが出来たでありましょうか。また、私たちは、何をここの譬えから学び取ることが出来るでありましょうか。本日のこの記事で、私たちは、主イエスが家から海のそばに、湖のそばに出て行かれたことを知っていますし、主イエスご自身の表現を通して、種をまく人が種まきに出て行ったとは、主ご自身のことであることを知らされます。当時の農法が、種をまいた後に耕すのであったにしろ、耕した後に種をまいたであったにしろ、その両方をやっていたにしろ、主イエスは、2000年を隔てて、今もなお私たちに向かって、また、すべての人に向かってみ言葉という種をまき続けておられることを、本日の譬えを通して知らされるのであります。
 現代は、主イエスがこの譬えを語られていた時代とは違って、はるかに生活は便利となり、科学は発達し、高度の文明を私たちは享受しています。しかし、逆に、それらを間違って使えば、どうにもならなくなるような、ある面では、かつてなくより危険な文明の中を、私たちは渡り歩いています。主イエスのお言葉に従うことが、むしろ、以前にもまして、より困難な時代を生きているともいえます。
 しかし、私たちが、主イエスの言葉を、しっかりと受け取り、また、実行して、100倍、60倍、30倍もの実を結ぶものとなり、あらゆる失敗や失望や挫折をも乗り越えて、今も主イエスがあるいは神が、種をまき続けられておられるその大きな忍耐に、しっかりと応えていく者にさせていただきたいものであります。ひとこと、お祈りします。
 天の父なる神さま。
 あなたは、み子、主イエス・キリストを通して、神の国の譬えをお示しくださいました。
四つの土地に、あらゆる土地に、主イエスは、今もみ言葉という種を聖書を通し、また、私たちキリスト者を通して、まき続けておられます。どのような環境にあろうとも、主ご自身は、失望すべきことや挫折、失敗にであっても、私たち人類をを見捨てることはありません。私たちがそのことを知り、それに応えて、豊かな実を結ぶことが出来ますように。あなたから離れやすいしもべを憐れんでください。この感謝と願いを、キリストによって、み前におささげいたします。アーメン。
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2005/07/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「種がまかれた四つの土地」(マタイ13:1~9)
マタイ13:1-9、2005・07・31、聖霊降臨後第11主日(緑)
イザヤ書55:10-11、ローマの信徒への手紙8:18-25、

マタイによる福音書13章1節~9節
 
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まってきたので、イエスは船に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは、百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

礼拝10時半~11時半
説教題「種がまかれた四つの土地」
教会学校 9時半
2005/07/31(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私が与える安らぎ」(マタイ11:25~35)
マタイ11:25-30、2005・07・24、聖霊降臨後第10主日(緑)
イザヤ書40:26-31、ローマの信徒への手紙7:15-25

マタイによる福音書11:25~30

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

説教「私が与える安らぎ」(マタイ11:25~30)
 聖霊降臨後第10主日を迎えました。本日の箇所は、マタイ福音書11章25節から30節であります。これは実に不思議な、主のお言葉であります。弟子たちが周りの町々へと宣教に出かけ、主イエスもまた、ガリラヤのカファルナウムや、ベッサイダやコラジンをまわり、奇跡やすばらしい働きをなさったにもかかわらず、人々は主イエスを信じなかったのであります。しかし、それに対して、主イエスは、その裁きを語った直後に、感謝の祈りである本日の言葉をいわれるのであります。
 「天地の主、父よ、あなたをほめたたえます。あなたはそれらのことを、知恵あるものや賢いものに隠して、幼子のようなものに、顕しになりました」と、主イエスは感謝の祈りでもって本日のお言葉を語られるのであります。
 確かに、この世の知恵ある者や理解力があるとこの世的に誇っている者たちは、容易には、主イエスのもとに来ないのであります。むしろ、反対に幼子のように、純真な素朴な心の者たちが、主イエスの教えを、そしてまた彼と共に既に神の国が来ていることを信じるのであります。
 主はさらにいわれます。「父以外には子を知るものはなく、また子と、子が啓示されるのを願うもの以外には、父を知る者はない」と。本日のこれを語っておられる主は、旧約聖書に出てくるモーセとして、いや、モーセをはるかに上回る方として、新しいモーセとしてお出でになっておられることを自ら、示しておられるのであります。
 「すべて、疲れている者や重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい」と主はいわれます。私たちが、真に魂に安らぎを持ち、休みを与えてくださるのは、主イエス以外にはおられないのであります。
 「わたしのくびきは負いやすく、その荷は軽い」と主はいわれます。そのくびきとは当時の律法を守れないでいる人々にとっては、律法のことであったでありましょう。あるいは、今の私たちにとっては、それは罪の重荷であるかもしれません。しかし、それを感じている者、私たち自身のために、主がそれを代わって負ってくださり、主は他の誰もが与えることのできない安らぎ、休みを与えてくださるのであります。
 私たちはそれぞれの重荷をこのお方にあずけ、旧約において既に約束されていたメシアであるお方、主イエスに新しくここから付き従っていきたいものであります。

2005/07/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「私が与える安らぎ」(マタイ11:25~30)
マタイ11:25-30、2005・07・24、聖霊降臨後第10主日(緑)
イザヤ書40:26-31、ローマの信徒への手紙7:15-25

マタイによる福音書11:25~30

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

説教題「私が与える安らぎ」渡辺賢次牧師、主日礼拝午前10時半~11時半

教会学校9時半~10時15分(子供の礼拝とお遊び)
2005/07/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスにつながる者の報い」(マタイ10:34~42)
マタイ10:34―42、2005・07・17、聖霊降臨後第9主日(緑)
エレミヤ書28:5-9、ローマの信徒への手紙6:15-23

マタイ福音書10:34~42
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
こうして自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

説教「主イエスにつながる者の報い」(マタイ10:34~42)
 
聖霊降臨後第9主日を迎えました。このところ、3回にわたって与えられている福音書の箇所は、マタイ10章であります。マタイによれば、主が12使徒を選び、派遣したときに、語ったとされる主の言葉が、10章の5節から42節までにわたって、まとめられているのであります。
 それはくりかえし、くりかえし、彼らを待ち受けている苦難と迫害を予告し、弟子たちを警戒させ、あるいは、前もって予告しておくことによって、弟子たちがうろたえないようにさせる意図で主はこのように、三つの部分に渡って語り続けておられるのであります。そして、本日の部分は、特に今でいえば、牧師や宣教師や、伝道師、あるいはマタイがこの聖書を書いた当時、たくさんいたと考えられる巡回教師などに限らず、すべての弟子たち、信者たちにも当てはまる苦難、迫害、拒絶などを、主が見越しておられて語られた警告、あるいは、慰め、励ましのお言葉として受け取ることができるものであります。
 本日の箇所で、まず、主イエスは、「私が来たのは、平和を地上にもたらすためだとあなた方は考えてはならない。そうではなくかえって剣を投ずるために来たのである」と語られています。主は、平和の君としておいでになられたのではなかったでしょうか。しかし、まず、この世界で、まことの信仰が確立されるためには、争いや、対立、分裂も避けられないのであります。神の国が実現するために、キリストは、剣を、あるいは、火をこの世界に投ずることになるのであります。私たちはそのことを予期し、自分たちによっても、その同じことがもたらされることを予め知って、備えなければならないのです。
主は、「私は、父をその息子に対して、母をその娘に対して、姑をその嫁に対して分裂させるために来た」といわれ、「そして人の敵どもは、その家の者たち・身内どもである」と旧約の預言書ミカ書7章6節を引用していわれます。 
さらに、主は言われます。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私を超えて、息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。自分の十字架を背負って私の後について来ない者は私にふさわしくない。」また、「自分の命を見つけようとする者は、それを失うであろう。しかし、私のために自分の命を失う者は、それを見出すであろう」と。
 私たちは、家族に対して、自然に愛情を持つものであります。そしてそれ自体は何も悪いことではありません。けれども、主イエスの弟子として従っていくことは、そのような本能的な愛情、絆に対しても、戦いをもたらすものであります。主イエスは、私たちが自己を追求することもやめなければ、そしてさらには、自分を憎む者でなければ、私の真の弟子ではありえないと、すべてのキリスト者に前もって、警告なさっているのであります。主イエスを宣べ伝えていくにおいては、身近な家族の中、親戚の中においても、いや、むしろそこにおいてこそ、軋轢が生じ、戦いがあることを、私たちは前もって予期するようにと、主イエスによって、備えさせられるのであります。信仰とはルターが言った通り、戦いであります。
 しかし、最後の10章40節から42節においては、私たち、すべてのキリスト者は、主イエスの口を通して、大きな慰めと励ましを与えられています。主は言われます。
 「あなたがたを受け入れるものは、私を受け入れるのであり、私を受け入れるものは、私を遣わされた方を受け入れるのである。預言者の名へと預言者を受け入れるものは、預言者の報いを受け取るであろう、また、正しい人を正しい人の名へと受け入れるものは、正しい人の報いを受け取るであろう。あなたがたによく言っておくが、弟子へとその小さい者の一人に冷たいものの一杯だけでも飲ませてくれるものは、その報いを失うことはないだろう」と。
 この「受け入れる」というのは、預言者、正しい者、さらには小さい者たちである弟子たちを「もてなすこと」と弟子たちの「宣教・使信を信じること」のふたつを意味しています。私たちは、自分のおかれたそれぞれの場所で、何も巡回教師たちのように、あるいは、12使徒たちのように宣教そのものを使命とするのでなくても、彼らをもてなしたり、彼らの宣教あるいは説教を信じることで、同じ報いを与えられるのであります。あるいは、さらに、私たちキリスト者をもてなしてくれる人々も、私たちと同じ報い、すなわち、天の国でのご褒美、報酬に与るということも言えるかもしれません。私たちがキリストの弟子であるという理由で、私たち小さい者に、冷たい一杯の水だけでももてなしてくれた人も、私たちと同じ報いに与るとしたならば、私たちはどのような苦難、迫害、憎しみ、拒絶にであっても、主イエスキリストを宣べ伝え、証しせずにはおれないのではないでしょうか。私たちすべてのキリスト者が、自分の持ち場、家庭や職業、それぞれのおかれている状況の中で、宣教することができるのであります。主イエスのこれらの警告と励ましの言葉に押し出されて、日常生活の中で、この1週間も主イエスを証ししていきたいと思います。
 天の父なる神さま。あなたの送られた主イエスの小さい弟子たちである私たちを顧みてください。私たちは、主イエスの弟子である人々をもてなし、また、信じていくことを通しても、その人たちと同じ報いに与ることができます。宣教の最前線にある人たちのために祈ることをも覚えさせてください。また、すべての人が主イエスを信じることが出来るために、私たち小さな者をそれぞれの持ち場、持ち場へとここから押し出してください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2005/07/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神に愛されているのだから」(ヨハネ一4:7~9)白井幸子先生
ヨハネⅠ、4:7-12、2005・07・10、白井先生を迎えての特別礼拝

ヨハネの手紙一 4章7節~10節

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。


題「神さまに愛されているのだから」(ヨハネ一 4:7~12)白井幸子先生 説教骨子
                  ルーテル学院大学講壇奉仕
                  白井幸子先生(ルーテル学院大学教授) 

「すべてのものを創ってくださった神は、あなたが神を知る前に、あなたを知り、愛してくださったのです。私たちはいつも、その愛に包まれています。」


午後の講演「幸せを生みだす心」白井幸子先生  講演の骨子

 「私たちの心の中には、『幸せを生みだす心』と『幸せを遠ざける心』があるように思えます。『幸せを生みだす心』とはどのような心なのかをご一緒に考えてみたいと思います。」
 


2005/07/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「み言葉のみに頼りて」(マタイ9:35~10:15)
マタイ9:35ー10:15、2005・07・03、聖霊降臨後第7主日(緑)
出エジプト記19:1-8a、ローマの信徒への手紙5:12-15

マタイによる福音書9章35節~10章15節

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道を行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

説教「み言葉のみに頼りて」(マタイ9:35~10:15)

私たちは、主イエスのお言葉とそのなされた働きについて、この時期、聖霊降臨後の季節を過ごしています。本日はマタイ9章35節から10章15節の箇所を福音として与えられています。先ほど読みましたこの福音書の箇所が、今日の私たちにとって、どのような意味を持っているかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
主イエスは、8、9章でいろいろな奇跡を行われ、またいくつかのお言葉を語られました。まず、最初にそれらのことを、総括して、「主イエスはすべての町々、村々を、み国の福音を宣べ伝え、また、教えながら、あらゆる病気と弱さを癒しながら、めぐっておられた」とマタイは締めくくっています。
そして、群衆が、飼うもののいない羊どものように、弱り、座り込んでいるのをごらんになって、はらわたがねじれるように、彼らを憐れまれたのであります。そして、収穫は多いが、働き人が少ない。収穫の主に願って、働き人が多く出るように願いなさいといわれました。
そして、汚れた霊どもを追い払う権能を与え、十二使徒を自分のもとに呼び寄せたのであります。それらの12人とは、マタイをはじめとし、裏切ったイスカリオテのユダを最後とする12人でありました。そして、派遣するにあたってご自分がなさっておられたのと同じ権能を彼らに与えたのであります。
そして、弟子たちへの説教が続くのであります。「異邦人の道に行くな。サマリヤ人たちの町へと入るな。イスラエルの失われた家の羊たちのもとにいくように」と言われるのであります。マタイ福音書の最後には、「全民族のもとに行ってわたしが言ったことをすべて教え、また、すべての人に洗礼を授けなさい」と復活の主は語られますが、十二使徒派遣に当たっては、まずはイスラエルに限って宣教するように言われます。イスラエルの十二部族に集中して教えることが緊急課題であったのであります。私たちの伝道においても、集中して能力の可能な範囲で宣教する必要があります。そして、「天の国は近づいた」と悔い改めを宣べ伝えなければなりません。
そして、厳しい貧しさを嫌うことなく、み言葉のみに頼って、宣教することが必要であります。それは、現代でいえば、牧師などだけに限られるのではなく、教会が、すなわち、私たち一人ひとりが、敵に反撃する杖も放棄し、靴も調達せず、食料のための袋も持たず、また、帯に金、銀、銅貨も持たずに、み言葉に信頼して歩むことが求められています。
そして、平和の挨拶をして、ある町や家に入り、それのための平安を祈らねばなりません。
ともすれば、この世界の他のものに頼りがちな私たちでありますが、聖書のみを携えて、宣教と教育と癒しに専念し、奇跡、すなわち、何よりも信仰を起こさせることこそが奇跡でありますが、その信仰を引き起こすように、私たちは隣人に向かわねばなりません。親鸞聖人は、「私は弟子ひとり持たずそうろう」と言いましたが、私たちに対して主イエスは、主イエスと同等の権能を付与して、私たちを送り出すと言われるのであります。私たちは無能であると言ってはなりません。主イエスによって、あなたがたを遣わすと言われて、私たちは、この世界に押し出されている一人ひとりなのであります。そのことを、肝に銘じながら、新しい1週間へと派遣されていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。



2005/07/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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