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津田沼教会 牧師のメッセージ
「罪人を招くために」(マタイ9:9~13)
マタイ9:9-13、2005・06・26、聖霊降臨後第6主日(緑)
ホセア書5:15-6:6、ローマの信徒への手紙5:6-11

マタイによる福音書9章9節~13節

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説教「罪人を招くために」(マタイ9:9~13)

 聖霊降臨後第6主日を迎えました。私たちは、特に聖霊降臨後のこの季節を、主イエスの言われたお言葉やなされた奇跡について、学んでいきます。この時期を表わす色が緑色でありますが、これは、神にあって与えられる希望を表わしています。本日与えられている福音は、マタイの9章の9節から13節までの短い出来事と主イエスのお語りになった言葉であります。しばらくご一緒に、それらの記事が、私たちにとってどのような意味があるのかを考えてみたいと思います。
 山上の説教が5章から7章で終わりました後、8,9章ではいろいろな出来事が記されています。本日のマタイ9章9節から13節は、その中のひとつの出来事であります。主イエスが、自分の住んでおられた町、カファルナウムに戻られた後、中風の人をいやすという出来事があり、そこから、主が去っていかれつつある時に、主は、「マタイという人」が、徴税の事務に向かって、腰掛けているのをご覧になったのであります。主のほうがまず、ペトロやヨハネたちの召命のときと同じように、見つめられ、そして、マタイに語られるのであります。「私に従いなさい」と。すると、マタイは、起き上がって、すなわち、準備をして、主に従ったのであります。他の共観福音書では、マルコは、徴税人はアルファイの子、レビとなっており、ルカは、レビとなっています。名前がふたつあったのでしょうか。それはありそうもないことであります。10章の3節では、十二使徒のなかに、徴税人マタイが出てきます。マタイという名前の意味は、「神の賜物」という意味であります。十二使徒の一人であることが、マタイ福音書の記者にとって、重要であったために、徴税人の出であるマタイをここに登場させているとも考えられます。
 当時の徴税人は、支配する権力におもねり、安息日を守れなくてもそれに甘んじ、ファリサイ派の人々からは、交わりを持つべからざる罪人たちの代表のような存在でありました。カファルナウムの郊外、町外れで、マタイは税関の仕事にあけくれ、しかし、心は沈みがちに、座り込んでいたでありましょう。しかし、そのようなマタイに向かって、主は私に従うようにと、主の側から弟子になるようにと語りかけられるのであります。私たちが、主によって招かれ、選ばれたのにも、同じような体験がそれぞれにあるのではないでしょうか。私たちの悔い改めやそれにふさわしい行いが先にあって、主イエスに従っていったのではなく、主イエスのほうから一方的に私たちを、罪あるままに、招いてくださり、私たちは、それに応えたのであります。
 さて、主イエスが、その家で食卓についているとき、見よ、大勢の徴税人や罪人たちもやってきてイエスやその弟子たちと同席していた、ということが起こりました。それを見て、ファリサイ派の人々は、彼の弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は、徴税人や罪人たちと一緒に食べているのか」と言っていました。イエスは、それを聞いて、言われました。「丈夫な人には、医者は必要ではない、そうではなく、病人たちが医者の必要を持っている。」そして、さらに、言われました。「あなたがたは言って、『私が欲するのは、憐れみであって、いけにえではない』とは、どういう意味なのか学んできなさい。私が来たのは、正しい人たちを招くためではなく、罪人を招くために来たのである」と。
 これは、ホセア書6章の6節からの引用であります。そこには、「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」とあります。
 ファリサイ派の人々は、人に対する愛をいけにえよりも、大切にせよという預言者の言葉をないがしろにしていました。そして、徴税人や罪人たちとの交わりを否定していました。主イエスは、医者として、病人である罪人たちをいやすために、おいでになられた方であります。そして、私たち人間は皆、主イエスによって、贖われ、癒されねばならない罪人であり、病人であります。主イエスは、律法や預言者を廃止するために来たのでなく、完成するために来られた方であります(5:17)。そして、私たちの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、天の国に入ることが出来ないといわれました(5:20)。
 主イエスがおいでくださったことによって、御国の福音は既に到来しています。そして、私たちは、無代価でそれを与えられています。徴税人も、またどのような罪人たちも、そしてまた、ファリサイ派の人々も、ただそれを受け取るようにと、招かれ、呼ばれているのです。私たちの側の悔い改めや功績や能力や努力、あるいは実績によって、そのごほうびとして、神の国へと招かれるのではありません。
 主イエスは、収税所に座っているマタイをごらんになり、私に従ってくるようにとお招きになりました。彼はペトロたち漁師の4人以上に、失った代償は大きかったでありましょう。再び徴税人の仕事に帰ることはできなかったでありましょう。しかし、マタイは、「神の賜物」を主イエスの召命によって、得たのであります。そして、洗礼を受けている私たち、また求道しておられる方一人ひとりも、マタイと同じ、大きな神さまからの賜物を与えられ、約束されているのであります。終わりの日に、主イエスがもてなしてくださるみ国での宴会の席に連なる者として、新しい生涯を、また、本日から1週間歩んでいきましょう。
一言祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、主イエスによって、声をかけられ、新たな生涯を歩んでいる一人ひとりです。そして、私たちもマタイと同じように「神の賜物」を約束されている者たちです。み子主イエスは憐れみによって、私たちを救いへと招かれましたが、私たちも、あなたによって罪赦された者として、互いに愛しあう生活をなし、あなたのみ心にかなった行いをなさせてください。この感謝と願いをキリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2005/06/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)