津田沼教会 牧師のメッセージ
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「罪人を招くために」(マタイ9:9~13)
マタイ9:9-13、2005・06・26、聖霊降臨後第6主日(緑)
ホセア書5:15-6:6、ローマの信徒への手紙5:6-11

マタイによる福音書9章9節~13節

 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」


説教「罪人を招くために」(マタイ9:9~13)

 聖霊降臨後第6主日を迎えました。私たちは、特に聖霊降臨後のこの季節を、主イエスの言われたお言葉やなされた奇跡について、学んでいきます。この時期を表わす色が緑色でありますが、これは、神にあって与えられる希望を表わしています。本日与えられている福音は、マタイの9章の9節から13節までの短い出来事と主イエスのお語りになった言葉であります。しばらくご一緒に、それらの記事が、私たちにとってどのような意味があるのかを考えてみたいと思います。
 山上の説教が5章から7章で終わりました後、8,9章ではいろいろな出来事が記されています。本日のマタイ9章9節から13節は、その中のひとつの出来事であります。主イエスが、自分の住んでおられた町、カファルナウムに戻られた後、中風の人をいやすという出来事があり、そこから、主が去っていかれつつある時に、主は、「マタイという人」が、徴税の事務に向かって、腰掛けているのをご覧になったのであります。主のほうがまず、ペトロやヨハネたちの召命のときと同じように、見つめられ、そして、マタイに語られるのであります。「私に従いなさい」と。すると、マタイは、起き上がって、すなわち、準備をして、主に従ったのであります。他の共観福音書では、マルコは、徴税人はアルファイの子、レビとなっており、ルカは、レビとなっています。名前がふたつあったのでしょうか。それはありそうもないことであります。10章の3節では、十二使徒のなかに、徴税人マタイが出てきます。マタイという名前の意味は、「神の賜物」という意味であります。十二使徒の一人であることが、マタイ福音書の記者にとって、重要であったために、徴税人の出であるマタイをここに登場させているとも考えられます。
 当時の徴税人は、支配する権力におもねり、安息日を守れなくてもそれに甘んじ、ファリサイ派の人々からは、交わりを持つべからざる罪人たちの代表のような存在でありました。カファルナウムの郊外、町外れで、マタイは税関の仕事にあけくれ、しかし、心は沈みがちに、座り込んでいたでありましょう。しかし、そのようなマタイに向かって、主は私に従うようにと、主の側から弟子になるようにと語りかけられるのであります。私たちが、主によって招かれ、選ばれたのにも、同じような体験がそれぞれにあるのではないでしょうか。私たちの悔い改めやそれにふさわしい行いが先にあって、主イエスに従っていったのではなく、主イエスのほうから一方的に私たちを、罪あるままに、招いてくださり、私たちは、それに応えたのであります。
 さて、主イエスが、その家で食卓についているとき、見よ、大勢の徴税人や罪人たちもやってきてイエスやその弟子たちと同席していた、ということが起こりました。それを見て、ファリサイ派の人々は、彼の弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は、徴税人や罪人たちと一緒に食べているのか」と言っていました。イエスは、それを聞いて、言われました。「丈夫な人には、医者は必要ではない、そうではなく、病人たちが医者の必要を持っている。」そして、さらに、言われました。「あなたがたは言って、『私が欲するのは、憐れみであって、いけにえではない』とは、どういう意味なのか学んできなさい。私が来たのは、正しい人たちを招くためではなく、罪人を招くために来たのである」と。
 これは、ホセア書6章の6節からの引用であります。そこには、「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」とあります。
 ファリサイ派の人々は、人に対する愛をいけにえよりも、大切にせよという預言者の言葉をないがしろにしていました。そして、徴税人や罪人たちとの交わりを否定していました。主イエスは、医者として、病人である罪人たちをいやすために、おいでになられた方であります。そして、私たち人間は皆、主イエスによって、贖われ、癒されねばならない罪人であり、病人であります。主イエスは、律法や預言者を廃止するために来たのでなく、完成するために来られた方であります(5:17)。そして、私たちの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、天の国に入ることが出来ないといわれました(5:20)。
 主イエスがおいでくださったことによって、御国の福音は既に到来しています。そして、私たちは、無代価でそれを与えられています。徴税人も、またどのような罪人たちも、そしてまた、ファリサイ派の人々も、ただそれを受け取るようにと、招かれ、呼ばれているのです。私たちの側の悔い改めや功績や能力や努力、あるいは実績によって、そのごほうびとして、神の国へと招かれるのではありません。
 主イエスは、収税所に座っているマタイをごらんになり、私に従ってくるようにとお招きになりました。彼はペトロたち漁師の4人以上に、失った代償は大きかったでありましょう。再び徴税人の仕事に帰ることはできなかったでありましょう。しかし、マタイは、「神の賜物」を主イエスの召命によって、得たのであります。そして、洗礼を受けている私たち、また求道しておられる方一人ひとりも、マタイと同じ、大きな神さまからの賜物を与えられ、約束されているのであります。終わりの日に、主イエスがもてなしてくださるみ国での宴会の席に連なる者として、新しい生涯を、また、本日から1週間歩んでいきましょう。
一言祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、主イエスによって、声をかけられ、新たな生涯を歩んでいる一人ひとりです。そして、私たちもマタイと同じように「神の賜物」を約束されている者たちです。み子主イエスは憐れみによって、私たちを救いへと招かれましたが、私たちも、あなたによって罪赦された者として、互いに愛しあう生活をなし、あなたのみ心にかなった行いをなさせてください。この感謝と願いをキリストのみ名によって、み前におささげいたします。アーメン。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
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2005/06/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「良い実を結ぶ者」(マタイ7:15~29)
マタイ7:15-29、2005・06・19、聖霊降臨後第5主日(緑)
申命記11:18-28、ローマ1:8-17

マタイによる福音書7章15節~29節
 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

説教「良い実を結ぶ者」(マタイ7:15~29)
 
本日は、聖霊降臨後第5主日であります。聖霊降臨後の季節に入って、私たちはイエス・キリストのお言葉となさったみ業、奇跡などを今年は、マタイ福音書を中心としながら学んでいきます。3年サイクルで、教会暦に従って、A年、B年、C年とそれを繰り返していくのですが、福音書はそれにもかかわらず、汲めども汲めども尽きない無尽蔵の豊かさを秘めていることを感じさせられます。
 本日は、このところ、読んできました山上の説教5章から7章までに含まれている部分の一応最後の箇所になりました。すなわち、7章の15節から29節までであります。小見出しがついていますように、偽預言者を警戒せよ、という部分と、「主よ、主よ」と私に言う者が必ずしもすべて、天の国に入れるわけではないという部分、そして、二人の家造りのたとえ、そして、最後に、主イエスの教えを聞いた群衆が主イエスの教えに圧倒されていたという山上の説教全体の結びの言葉から、本日の福音の箇所は構成されているのであります。しばらく、ご一緒に、本日の箇所から考えてみたいと思います。
 主はまず、偽預言者から注意を怠らないようにというお言葉で本日の部分を語り始められます。彼らは、羊の装いをしてあなたがたのところにやって来るが、内部は、貪欲な狼であると言われます。ところで、マタイは、特に十戒に対して、主イエスを通して、律法学者やファリサイ派の人々の義にあなたがたの義がまさっていなければ、天の国に入ることはできないと言わせられて、多くの教え、戒めを語られたのであります。それは、正式にキリスト教を排斥した紀元後85年のユダヤ教側の決定のころの、マタイの教会の状況を反映していると考えられます。ユダヤ教側の律法理解や、十戒の見方に対して、主イエスの口を通して、教会に与えられたものとして、5章から7章までの山上の説教が編集されたとも考えられます。
 さて、この偽預言者というのは、おそらく、その当時に、キリスト教会の内部で偽預言者が現れていることを暗示しています。彼らは真のキリスト教でないものを持ち込んでいたのであります。主はそれに対して言われています。茨からぶどうは取れないし、あざみからいちじくは取れない。あなたがたは彼らの実から彼らを識別するであろう、と。良い木から、良い実が生まれ、悪い木から悪い実が生じ、良くない木から良い実はならない。さらに、すべて良い実を生じない木は切り取られて、火の中へと投げられる、と。私たちは、良い実を生むためには、良い木である必要があります。それは、正しい信仰ともいえましょうし、正しい教えともいえるでしょう。山上での説教で、主イエスが語られたお言葉は、良い木であるといえるでしょう。私たちは、そのお言葉に日々真剣につながるとき、良い実、良い行い、実践が伴うのであります。しかし、私たちは、主のお言葉から本当にすぐに離れやすいものであります。しかし、だからといって、気落ちしたり、絶望することなく、山上の説教を中心とした主の教え、戒めにつながるために、まずは、キリストの真の教えと偽預言者とを峻別する確かな目を与えられるように祈り求めたいものです。
 主は、「主よ、主よ」というすべての者が、天の国に入れるわけではなく、天の父のご意志を行うものだけが、入れるのであると、続けて言われます。その日には、多くの者が、「私たちは、あなたの名で預言し、悪霊を追い出し、力あるわざ・奇跡をおこなったではありませんか」と言うであろうが、私ははっきりと、あなたがたを知らないと言うであろう、と厳しい終りの日の裁きに言及しています。私たちは、父なる神が、何を望まれているかを、山上の説教を通して、知らされています。
 そして、山上の説教の締めくくりとして、あの二人の家造りのたとえをなさいます。ある賢い人は、岩の上に家を建てた。雨が降り、川がやってき、風が吹き付けたが、倒れなかった、なぜなら岩に向かってその家はすえられていたからであると。また愚かな人は、砂に向かって家を建てた。そして、雨が降り、川が押し寄せ、風が吹き付けた。これは、私たちの長い信仰生活のなかで襲ってくる災難や困難を意味しているでしょう。主は、するとその家は倒れ、その倒れ方はひどかった、と言われます。
 そして、わたしの言葉を聞いて行う人がその賢い人に似せられ、山上の説教の言葉を聞いて行わない人が愚かな人であることを示されます。そして、これらの言葉を聞いた群衆は圧倒されていた。なぜなら、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として、主は語っておられたからであると山上の説教は結ばれています。弟子たちに限らず、群衆も含めてすべての人が、主イエスの山上の説教の聞き手として考えられています。私たちは、これらのお言葉を、聞いて行う者となるように、主から招かれているのです。「実を結ぶ」と聞いて「行う」というもとの言葉は同じ言葉で言い表されています。私どもは、主のこれらの山上の説教のお言葉からすぐに離れやすい弱い存在ですが、主イエスは、私たちに、ご自分の言葉を聞いて実践する者となるように、今もすべての人が招かれているのです。祈りましょう。
天の父よ、私たちの弱さをあなたは十分ご存知です。どうか、私たちが、終りの日の審判の日にあなたのみ前に臆することなく立つことができるように、普段の日常生活において山上の説教の主イエスのみ言葉によって、日々導いてください。キリストによって祈ります。




2005/06/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主に自らをゆだねよ」(マタイ6:24~34)
マタイ6:24-34、2005・06・12、聖霊降臨後第4主日(緑)
イザヤ書49:13-18、コリントの信徒への手紙一 4:1-13

マタイによる福音書6章24節~34節
 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」



説教「主に自らをゆだねよ」(マタイ6:24~34)

 聖霊降臨後第4主日を迎えました。私たちは、このところ、マタイによる福音書5章から7章にかけての「山上の説教」と呼ばれる箇所から、福音を与えられています。そして、本日の箇所は、マタイ6章の24節から、34節までであります。24節は、その前の5章19節からつながっています。そういう視点から、25節から34節までも、一貫して捉えることができるのではないかと思います。すなわち、「弟子たちと所有の問題」として、本日の箇所を見ることができるのであります。ですから、少し遡って、5章の19節から、見ることにしましょう。
 主イエスは、まず、「地上ではなく、天に宝を積むように」と言われます。地上では、虫が食い、さびが生じる。さらに、盗人たちが、壁に穴を開け、奪うことがある。しかし、天に積まれた宝は、そんな心配はない、と言われるのであります。天に宝を積むとは、神のご意志に従った生き方やふるまいをするということであります。それは、朽ちることなく、天にいます神による報いが約束されているのであります。そして、「あなたがたの富があるところにあなたがたの心もある」、と言われています。
 続いて、主の言葉は、こうであります。「あなたがたの目が澄んでいれば全身が明るい。もし、それが濁っていたら、その体の暗さはどれほどのものであろうか」、と。これは、寛大な、分け惜しみしない心と、けちで邪悪な心とを指しているとも考えられますし、むしろ一意専心、神に向かっての、分かたれるところのない従順、忠誠を表しているとも考えられます。
 そして、三番目の言葉として、本日の日課である24節が来ます。主は、「誰も、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一人を憎み、もう一人を愛し、あるいは、一方に献身・没頭し、他の一方を軽蔑するから」であると言われるのであります。そして、あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできないと、本日の日課の最初の節は来ているのであります。この富とは、マモンという言葉で、それ自体悪い意味を必ずしも持っているものではありません。しかし、私たちは、神に従順となり、忠誠を尽くしていくか、それとも、別の魅力あるもの、富とか財産とか、わたしたちをいろいろな形で虜にしてしまうものによって支配されるか、いずれかなのであります。私たちの目と心がまっすぐに神の方向を向いているか、それとも、別のものによって導かれ、支配されているか、私たちの生活はそのいずれかなのであります。
 そして、25節から34節までが、また、一つの部分をなしているのであります。あなたがたに、それゆえ、私は語る、と始まっています。「あなたがたは、命のことで何を食べ、何を飲み、体のことで何を着るかと思い悩むな」、と言われるのであります。本日のここから始まる主イエスのお言葉によって、いろいろな生き方が、歴史上生まれてきました。労働を軽視する者も出ました。また反対に、修道院のように、労働を、祈りと共に重んじる生き方も生まれました。はたして、主イエスのこれらの言葉をお語りになったその目的は何だったのでしょうか。そして、私たちは、現代、今の時代にあってここをどう受け取っていけばよいのでしょうか。
 主イエスは、言われます。命、あるいは霊は、食物にまさり、体は、衣服にまさると。
そして、そのことの例示として、空の鳥たちや、野の花どもをあげられます。空の鳥は蒔かず、刈り入れもせず、蔵におさめることもしない。しかし、あなたがたの天の父は、彼らを養っておられる。あなたがたが、思い悩んだからといって、ほんのわずかでも、寿命をのばすことができようか。また、野の花どもをよく観察してみるがよい。それらは、労苦もせず、自らつむぎもしない。しかし、私は言っておく。全栄光におけるソロモンも、それらのひとつほどにも着飾ってはいなかった。明日は炉の中に燃料として投げ込まれるの野の草でさえ、神はこのように装っておられるなら、あなたがたに対してはなおさらのことではないか、信仰のほとんどない者よ、と言われます。そして、あなたがたは何を食い、飲み、着ようかと思い悩むなと言われます。この「思い悩む」とは、もともと、心が分かたれる、入り乱れるという意味であります。主は、それに対して、天の父はあなたがたがそれらすべてを必要としていることをご存知である。 だから、「あなたがたはまず、神の国とその義とを求めよ」と言われるのであります。神のご支配に対して、また神の義すなわち、神のご意志に従順に従うことこそ、最優先に求めなさい。そうすれば、それらのものはすべて、添えて与えられるであろうと、宣言なさるのであります。
 不況の先行きの見えない時代を私たちは送っています。特に若い人たちは就職も困難な時代であります。しかし、神のご意志、そしてそれに従った正しい生活を送るならば、神なる主は、必要なものを備え、道が開かれると、主イエスは、現代のわたしたちに向かっても語っておられます。
 そして、最後に、「それゆえ明日のことを思い煩うな。明日は明日自らが思い悩むであろう。一日の苦労は一日で十分である」、とマタイには結語が記されているのであります。これは、過度の不安を持って明日のことを、心配するのではなく、むしろ今日一日を主にゆだねて精一杯生きなさいという勧めであります。過度の煩悶からときはなたれて、主が道を備えてくださることに信頼して、新しい1週間へと送り出されていきましょう。祈ります。
天の父なる神さま。
 私たちは、自分に与えられている持ち物や時間やそれぞれの賜物を用いて、すべてを、あなたにゆだねて生きる新しい生き方を主イエスによって示されまして感謝いたします。
 どうか、煩悶する生活から、ときはなたれて、あなたのご意志にかなった生活をおくらせてください。キリストによって祈ります。アーメン。








2005/06/12(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
『神との関係で完全な者に」(マタイ5:38~48)
マタイ5:38-48、2005・06・05、聖霊降臨後第3主日(緑)聖餐礼拝
レビ記19:17-18、コリントの信徒への手紙一 3:10-23、

マタイによる福音書5章38節~48節
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」


説教「神との関係で完全な者に」(マタイ5:38~48)
本日の前段は、「復讐をしてはならない」という主イエスの戒めであり、後段(5:43-48)は、「敵を愛せよ」と言う教えであります。
 私たちは、これらの言葉が、不可能に近いことを知っています。しかし、神との関係で、神がそうであられるように、まったき者、それに向かって一途なものであることを、求められています。
 「歯には歯を、目には目を」と言われていることをあなたがたは聞いていると、本日の箇所は始まります。これは同害報復を教えたものであり、それまでの一族にまでも報復する野蛮な慣習を制限したハムラビ法典にさかのぼるヘブライ法の慈悲に満ちた教えであります。それに対して、更にわたしは言う、と主イエスは3つの例をあげます。これらは、法律的な報復にかかわるものであります。悪人に手向かうな。これは、法律的なやりかえしを求めるなというのが、中心にある考え方です。
 「あなたの右の頬を打つものに、左の頬をも向けよ。」これは、軽蔑のやり方であります。それに対して反撃を加える権利を行使してはならないといわれます。私たちは、軽蔑されることに、なかなかがまんすることができないのであります。しかし、神が慈悲深いように、そして、私たちを寛大に赦しておられるように、あなたがたも、完全であるべきだというのであります。亀井勝一郎さんは、もしも、イエス・キリストが受難のときに、右の頬を打たれたとき、もう一方の頬をも向けなかったならば、大祭司たちは、イエスを、十字架にかけることはしなかったであろうと書いておられます。
 次に、下着を取ろうと訴える者にも、上着をもまかせ、1ミリオン、1.5キロを荷物持ちなどで強いるローマ兵などの要求に対して、2ミリオンを彼と共に出て行くように言われるのであります。
 そして、あなたから、借りることを求める者に与え、あなたから借りようとする者に背を向けるなと言われます。
 さて、後段は、愛敵に関する教えであります。「隣人を愛し、敵を憎むようにと言われているのをあなたがたは聞いている。」「しかし、あなたがたは敵を愛し、迫害する者のために祈るように」と主は言われます。
 これは、共同体に対する迫害者などに対処するにあたっての教会のあるべき姿を言っているのであります。そして、それによって「あなたがたが、あなたがたの天の父のとなるように」と主はいわれます。
 「神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるから」であります。
 「あなたがたによくしてくれる者に、よくしたとて、何の報いがあろうか。あなたがたに挨拶してくれる。」これは、「あなたがたの平安と幸福を願ってくれる者たち」の意味でありますがそんな者にだけ、挨拶したと手何の勝ったことがあろうか。それなら異邦人でもしていることではないかと言われるのです。天の報いが残されるような生き方をしなさいと言われるのであります。
 そして「天の父が完全であられるようにあなたがたも完全な者になるように」と言われるのであります。
 一途に、天の報いを求めつつ、わたしたちは、一日一日を努め、ふるまうべきであります。軽蔑に遭い、不当なことに遭っても、わたしたちは、わたしたちの天の父が情け深いように、そのように、ふるまうことこそが、父なる神の願っておられるご意志であります。私たちは欠点だらけの不完全な者ですが、苦しい目にあっても、しかし父との関係でまっすぐにつながって生きていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2005/06/05(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「天の国に入るには」(マタイ5:21~37)
マタイ5:21-37、2005・05・29、聖霊降臨後第2主日(緑)
申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙一 2:6-13

マタイによる福音書5章21節~37節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

説教「天の国に入るために」(マタイ5:21-37)
 本日から、聖卓や聖書朗読台、説教台、アルバに用いられるストールの色も緑に変りました。今まで、アドベントの時から、終末の期待、み子の誕生、顕現、受難、十字架と復活そして、聖霊の降臨、さらに先週の三位一体の主日というふうに、み子にかかわる救いの出来事を教会暦を通して、辿ってきました。そして、もう5月の最終の日曜日を迎え、教会暦としてはもう後半に入るのであります。この間、いろいろな私たちの救いにかかわる出来事が、主に福音書の箇所から取り上げられましたが、本日からは、特に主イエスのお語りになったお言葉と、なさった奇跡などの出来事が読まれるのであります。
 そして早速本日は、マタイの山上の説教のなかから、5章の21節から37節までが選ばれているのであります。この山上の説教は、昔からいろいろな読み方がなされてきましたし、多様な読み方ができる箇所であります。本日の箇所では、「腹を立てるな」、「姦淫について」、「離縁について」「一切誓うな」という内容について、主イエスは語っておられます。
私たちの身近な日常生活にかかわる内容が、主イエスによって、ファリサイ派にまさるより完全な義として、あげられているのであります。私たちは、「天の国に入るために」は、何かこの世離れした、深遠な教理とか、救いの言葉を必要とするように考えがちですが、日常生活のそのものにかかわる「他人に対して怒るとか」「他人に恨みを持たれている」場合だとか、「ある訴訟の相手方に訴えられ、共に歩いている」場合ですとか、他人の妻を性的な欲望をもってみることとか、離縁することとか、あるいは、何かを誓ったりするといった日常的な出来事が、天の国に入ること、それは神さまの支配の中に与かることでもありますが、そのような根本的な救いとかかわる重要な事柄だと主は本日お教えになっておられるのであります。それらの一つ一つについて思いをめぐらしてみたいと思います。
 本日の内容は、十戒に多くかかわるものであります。殺すなかれ、姦淫するなかれ、隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ、なんじの隣人の妻をむさぼるなかれ、といった十戒の言葉がすぐ思い起こされます。ルターは、良い行いとは、十戒の中に尽くされているといいました。よい行いをするというと何か特別な社会奉仕とか、貧しい人たちの支援とか、普通の人にはできがたい大きな働きをしなければならないように思いがちですが、ルターは、十戒の中にあらゆるよい行いが尽くされているといいます。本日の主イエスの言葉は、それにかかわる、私たちが天の国に入るためのあり方を指し示しているのであります。
 まず、怒りについてであります。あなたがたは、聞いている、昔の人たちにこういわれたことを。すなわち、あなたがたは殺してはならない、と言うことについてであります。主は、それに対して、私は言う、彼の兄弟に対して怒る者は裁判の責めを負う。あなたがたは、兄弟を馬鹿と言ってはならない。そういうものは、最高法院の責めを負う。また、愚か者と言うものはゲーナ、地獄へと責めを負うであろう、と言われるのであります。私たちは日常生活でしばしば、兄弟を怒り、他人を、仮に口に出して言わなくても、心の中で、怒ったり、ののしったりするものであります。主は、ルターもそのように解したように、兄弟や隣人に対して怒ることは、心の中で相手を殺すことに通じるといわれるのであります。そのようにして他人に親切にふるまい、対応することは不可能のように思われますが、主イエスキリストが、私たちが罪人であった時に、私たちの罪をにない、十字架についてくださったことを知る時にこのことは可能になるのであります。
 主は、祭壇への献げ物をするに際して、あなたの兄弟があなたに対して反感、恨みを持っていることを思い起こした時にも、同じように、まずその兄弟のところへ行って、和解した後でその献げものをするようにと教えています。これは、わたしたちが神への礼拝をするに際しても、同様に考えることができるでありましょう。私たちは、そのために、礼拝に際して、まず、ざんげの祈りをし、言葉と行いと思いをもってみ前に多くの罪を犯したことを告白するのであります。
 訴訟の相手方が、あなたを訴えて共に歩んでいるときにも、急いでその人と友達となり、和解するように主は言われます。さもないと、あなたは、裁判官に渡され、下役に渡され、牢に入れられ最後の1カドランスを返すまでそこから出てくることはできないであろうとも言っておられます。
次に、姦淫についてであります。あなたは姦淫してはならないといわれている。それに対して私はさらに言う、他人の妻を欲望をもって見る者は、心の中で既にその女を姦淫したのであると言われるのであります。これも非常に困難な言葉であります。主イエスの十字架上の死をもって、自分のために死んでくださったという思いをもって、対するときにのみ可能な言葉であります。また、離縁についても、不法な結婚でもないのに、妻を追い出す者は、その妻に姦淫を犯させる者であり、その女を妻にする者も姦淫を行うのであると言われます。
 そして最後に、誓いについてであります。天をさして、地をさして、また自分の頭をさして、あるいは、エルサレムに向かって、一切、誓ってはならないと、主は言われます。偽り誓ってはならないとあなたがたは聞かされている。これは誓いを破ってはならないとも、訳すことができます。そして誓ったことを守るようにと言われている、とも。しかし、私たちの生活の中で言葉にも行いにも誠実に対応することができるならば、誓いなどは不必要になるのであります。主は、あなたがたの言葉は、『然り、然り』『否、否』でなければならない。それ以上に出ることは悪魔から来るのであるとまで言われます。何かと自分の行いに弁解しないで、誠実に率直に行動したいものであります。
一言祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、み子の十字架上の死を通して、初めて、十戒の教え、み前に正しい行いをすることができる者です。日常生活のささいな喧嘩や憎しみから私たちが解き放たれ、怒るに遅く、そして、兄弟や周囲の人々と和解して、誠実で率直な向かい方をすることができますように、憐れんでください。キリストによって、アーメン。

2005/06/04(土) 14:16:19| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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