津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天の国に入るには)(マタイ5:21~37)
マタイ5:21-37、2005・05・29、聖霊降臨後第2主日(緑)
申命記30:15-20、コリントの信徒への手紙一 2:6-13

マタイによる福音書5章21節~37節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

説教「天の国に入るために」(マタイ5:21-37)
 本日から、聖卓や聖書朗読台、説教台、アルバに用いられるストールの色も緑に変りました。今まで、アドベントの時から、終末の期待、み子の誕生、顕現、受難、十字架と復活そして、聖霊の降臨、さらに先週の三位一体の主日というふうに、み子にかかわる救いの出来事を教会暦を通して、辿ってきました。そして、もう5月の最終の日曜日を迎え、教会暦としてはもう後半に入るのであります。この間、いろいろな私たちの救いにかかわる出来事が、主に福音書の箇所から取り上げられましたが、本日からは、特に主イエスのお語りになったお言葉と、なさった奇跡などの出来事が読まれるのであります。
 そして早速本日は、マタイの山上の説教のなかから、5章の21節から37節までが選ばれているのであります。この山上の説教は、昔からいろいろな読み方がなされてきましたし、多様な読み方ができる箇所であります。本日の箇所では、「腹を立てるな」、「姦淫について」、「離縁について」「一切誓うな」という内容について、主イエスは語っておられます。
私たちの身近な日常生活にかかわる内容が、主イエスによって、ファリサイ派にまさるより完全な義として、あげられているのであります。私たちは、「天の国に入るために」は、何かこの世離れした、深遠な教理とか、救いの言葉を必要とするように考えがちですが、日常生活のそのものにかかわる「他人に対して怒るとか」「他人に恨みを持たれている」場合だとか、「ある訴訟の相手方に訴えられ、共に歩いている」場合ですとか、他人の妻を性的な欲望をもってみることとか、離縁することとか、あるいは、何かを誓ったりするといった日常的な出来事が、天の国に入ること、それは神さまの支配の中に与かることでもありますが、そのような根本的な救いとかかわる重要な事柄だと主は本日お教えになっておられるのであります。それらの一つ一つについて思いをめぐらしてみたいと思います。
 本日の内容は、十戒に多くかかわるものであります。殺すなかれ、姦淫するなかれ、隣人に対して偽りの証しを立つるなかれ、なんじの隣人の妻をむさぼるなかれ、といった十戒の言葉がすぐ思い起こされます。ルターは、良い行いとは、十戒の中に尽くされているといいました。よい行いをするというと何か特別な社会奉仕とか、貧しい人たちの支援とか、普通の人にはできがたい大きな働きをしなければならないように思いがちですが、ルターは、十戒の中にあらゆるよい行いが尽くされているといいます。本日の主イエスの言葉は、それにかかわる、私たちが天の国に入るためのあり方を指し示しているのであります。
 まず、怒りについてであります。あなたがたは、聞いている、昔の人たちにこういわれたことを。すなわち、あなたがたは殺してはならない、と言うことについてであります。主は、それに対して、私は言う、彼の兄弟に対して怒る者は裁判の責めを負う。あなたがたは、兄弟を馬鹿と言ってはならない。そういうものは、最高法院の責めを負う。また、愚か者と言うものはゲーナ、地獄へと責めを負うであろう、と言われるのであります。私たちは日常生活でしばしば、兄弟を怒り、他人を、仮に口に出して言わなくても、心の中で、怒ったり、ののしったりするものであります。主は、ルターもそのように解したように、兄弟や隣人に対して怒ることは、心の中で相手を殺すことに通じるといわれるのであります。そのようにして他人に親切にふるまい、対応することは不可能のように思われますが、主イエスキリストが、私たちが罪人であった時に、私たちの罪をにない、十字架についてくださったことを知る時にこのことは可能になるのであります。
 主は、祭壇への献げ物をするに際して、あなたの兄弟があなたに対して反感、恨みを持っていることを思い起こした時にも、同じように、まずその兄弟のところへ行って、和解した後でその献げものをするようにと教えています。これは、わたしたちが神への礼拝をするに際しても、同様に考えることができるでありましょう。私たちは、そのために、礼拝に際して、まず、ざんげの祈りをし、言葉と行いと思いをもってみ前に多くの罪を犯したことを告白するのであります。
 訴訟の相手方が、あなたを訴えて共に歩んでいるときにも、急いでその人と友達となり、和解するように主は言われます。さもないと、あなたは、裁判官に渡され、下役に渡され、牢に入れられ最後の1カドランスを返すまでそこから出てくることはできないであろうとも言っておられます。
次に、姦淫についてであります。あなたは姦淫してはならないといわれている。それに対して私はさらに言う、他人の妻を欲望をもって見る者は、心の中で既にその女を姦淫したのであると言われるのであります。これも非常に困難な言葉であります。主イエスの十字架上の死をもって、自分のために死んでくださったという思いをもって、対するときにのみ可能な言葉であります。また、離縁についても、不法な結婚でもないのに、妻を追い出す者は、その妻に姦淫を犯させる者であり、その女を妻にする者も姦淫を行うのであると言われます。
 そして最後に、誓いについてであります。天をさして、地をさして、また自分の頭をさして、あるいは、エルサレムに向かって、一切、誓ってはならないと、主は言われます。偽り誓ってはならないとあなたがたは聞かされている。これは誓いを破ってはならないとも、訳すことができます。そして誓ったことを守るようにと言われている、とも。しかし、私たちの生活の中で言葉にも行いにも誠実に対応することができるならば、誓いなどは不必要になるのであります。主は、あなたがたの言葉は、『然り、然り』『否、否』でなければならない。それ以上に出ることは悪魔から来るのであるとまで言われます。何かと自分の行いに弁解しないで、誠実に率直に行動したいものであります。
一言祈ります。
天の父なる神さま。私たちは、み子の十字架上の死を通して、初めて、十戒の教え、み前に正しい行いをすることができる者です。日常生活のささいな喧嘩や憎しみから私たちが解き放たれ、怒るに遅く、そして、兄弟や周囲の人々と和解して、誠実で率直な向かい方をすることができますように、憐れんでください。キリストによって、アーメン。

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2005/05/29(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の祝福に包まれて」(マタイ28:16~20)内海望牧師
2005・05・22、三位一体主日(白)マタイ福音書28:16~20
イザヤ書6:1―8、コリントの信徒への手紙二 13:11-13

マタイによる福音書28章16節~20節
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地のすべての権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教「主の祝福に包まれて」(マタイ28:16~20)内海望牧師

 マタイ、マルコ、ルカ福音書では終わり方が少しずつ違います。これは当然です。神さまの前では全く小さな存在でしかない人間が、神さまのひとり子であるイエスさまの生涯、そのメッセージを伝えようとするのですからイエスさまの全体を理解するなど不可能です。私たち人間は自分が知り得ただけしか、福音の一部しか知ることが出来ないのです。私たちの知ることの出来る福音はほんの一部です。しかし、それでも、それは私たちを生かして余りあるのです。その他すべてはイエスさまのみ心にお任せするのです。これが神信頼であり、信仰なのです。[ソロモンの祈り]。
 今日与えられたマタイは「派遣命令」で終わっています。ルカは、イエスさまが弟子たちを前にして「手をあげて祝福され、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と昇天の記事で終わっています(24章50.51節)。マルコも同じような文章です。どちらも人間の理解することの出来たイエスさまの姿です。
 しかし、マタイの記事とルカの記事を重ね合わせて、心に思い浮かべると、本当に美しい光景が浮かび上がってきます。何度読んでも感動するところです。
 「派遣命令」、すべて命令形というのは、人間を束縛するものです。「これを守りなさい」という言葉を聞くとき、「もし、守らなかったら報い(罰)が与えられる」のです。今日のイエスさまの派遣命令も「命令だけ」を取り出せばそうでしょう。守ることが良いクリスチャンとしてのしるしとなるのです。緊張させられます。
 しかし、ルカの「祝福しながら、天に上げられた」という記事と重ね合わせると、この命令形が、私たちの心をわきたたせる、自由な、躍動感溢れる文章に変わって行くことに気づかされます。復活のイエスさまの祝福の暖かさに包まれた命令形なのです。
 実は、17―18節にその暖かさがよく表れています。「しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた」という文章を考えて下さい。「天の父のみ許に行かれる前に」、立ち止まり、「疑う者」の所にわざわざ近づいて話し掛けられるイエスさまに、私たちは「救い主の姿を見るのです。ローマ5:5-8に「神の愛が私たちの心に注がれているからです。実に、キリストは、私たちがまだ弱かったころ定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」という驚くべき言葉があります。
 あまりにも大胆な言葉なので、私たちは、ついうっかりと「キリストは信心深い者のために死んで下さった」と読んでしまうのです。それが人間の理屈に合っているからです。しかし、イエスさまはわざわざ立ち止まって、「疑う者」に近寄り、「君に命じるのだ。私は君を信頼している」と声をかけて下さるのです。これは不信心な罪人である弟子たちに対する「祝福に包まれた命令形」なのです。疑う者、罪人を救うためにイエスさまは十字架に死んで下さったのです。そしてこのことを知らされた時、弟子たちはどうしてじっとしておれましょうか。この愛に包まれた時、彼らは心からの喜びをもってこの命令に従ったことでしょう。「信仰とは真に生き生きとした活動的なものであって、絶えず善いことをせざるを得ないものである」とルターは語りましたが、それは、まさにこの弟子たちの姿を語っているのです。

 ここで注意したいのは、もし、私たちが「キリストは信心深い者のために死んで下さった」と聖書を誤解している時は、この祝福に与れないということです。私たちは、どうしてもファリサイ人になってしまいます。言い訳をして自分を正当化したり、傲慢にも自分を高くし、他人を見下げたりして生きているのです。このように生きている限り、イエスさまの福音を正しく聞くことは出来ません。
 今日の初めの朗読におけるイザヤのように、正直に自分の心の奥底を見つめ、「災いだ。わたしは滅ぼされる」神さまの前に砕けた、悔いた心を持ってひれ伏した者にこそイエスさまの愛が生きて働くのです。罪人を救うために十字架に死んで下さったイエスさまの愛に生きる喜びを得るのです。復活の命を与えられた喜びに与ることが出来るのです。その時、私たちはイザヤと共に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と生き生きとした喜びをもって返事できるのです。
 イエスさまは、弱い罪人である私たちのところにまで近寄って「私は君を当てにしているのだ。私は罪に死んだ君に新しい命を与える。私と共に福音を伝えよう」とおっしゃって下さるのです。何と素晴らしいことでしょうか。
 しかそ、この十字架の主、復活の主は「私はいつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっているのです。「私」はいい加減であり、自分のことで頭がいっぱいになり、神さまのことを忘れてしまうことがしばしばあります。しかし、イエスさまは決して約束を破ることなく、「いつも」私と共にいて下さるのです。
 罪人を愛し、そのために命を捨てて下さったイエスさまが聖霊を通して、いつも共に歩んで下さるのです。このことを信じてイエスさまの派遣命令に従ってこの世を歩きましょう。
 神さまの罪人を愛する愛がイエスさまの十字架と復活を通して私たちに与えられ、聖霊によって日々働きかけてくださる、これは「三位一体」の意味なのです。
2005/05/22(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「聖霊降臨の出来事」(使徒言行録2:1~21)
使徒2:1-21、2005・05・15、聖霊降臨祭(赤)
ヨエル書3:1-5、ヨハネ福音書7:37-39

使徒言行録2章1節~21節
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されるのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話しをしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フルギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒によっているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。
  終わりの時に、
  わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
  若者は幻を見、老人は夢を見る。
  わたしの僕やはしためにも、
  そのときには、わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。
  上では、天に不思議な業を、
  下では、地に徴を示そう。
  血と火と立ちこめる煙が、それだ。
  主の偉大な輝かしい日が来る前に、
  太陽は暗くなり、
  月は血のように赤くなる。
  主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」


説教「聖霊降臨の出来事」(使徒言行録2:1~21)
 皆さん、本日は聖霊降臨祭であります。聖霊降臨祭、ペンテコステは、教会の誕生日であります。おめでとうございます。これは、復活祭およびクリスマスと並び、キリスト教におけるいわば三大祭であります。
 今日は、福音書からではなくて、使徒言行録に載っている聖霊降臨の出来事そのものについて学びましょう。
 主のご復活が、過ぎ越し祭のことでありました。今年は3月27日に祝いました。それから先週は主のご昇天を祝いました。そして本日は、旧約聖書の五旬祭すなわち、50日目という意味のペンテコステの祝日であります。
弟子たちは、主のご昇天の後待って祈っておりました。エルサレムの弟子の家であったでしょうか。120人くらいが一つになっていたとも書かれていますが、ペンテコステ、50日目が満たされた時、天から風のような大きな音がして、舌のような形をした火のようなもの、すなわち、聖霊が弟子たち一人一人の上にくだったのであります。
 そのとき、朝の9時頃でありますが、戸外にいた敬虔な、五旬祭に戻っていた、あらゆる国々からのユダヤ人たちやその改宗者たちが、その大きな物音に気づいてやってきます。
そして、弟子たちがそれぞれ、その外国から来た人たちのその言語、舌という字が使われていますが、それでもって語り、神の偉大なる業を証ししているのをみて、驚き、戸惑ったのであります。
 それは、離散した外国にいた者たちで、祭りのため戻ってきていた者たちでしたが、一方では、新しい酒によっているのだという者たちがおり、他方では、結局3000人ほどが洗礼を受けるに至った者たちがいたのであります。
 弱くおびえていた弟子たちが、ペトロをはじめ、50日間を通して、聖霊を受けてまったく変えられるのであります。私たちも弱く、この曲がった時代に生きている者ですが、この最初の弟子たちと同じように、洗礼を受け、聖霊を受け、罪の赦しを受けたのであります。それは決して、自分の反省や努力によって、変えられたのではありません。
 このことを、ペトロが最もよく示しています。彼は、裏切った弟子の一人でありましたが、この日の出来事を通じて、立ち上がらされ、ヨエルの預言の言葉が実現したことを、大胆に説き明かす者とされています。
 終わりの日に、すべての人に私の霊を下すとヨエル書にあります預言がついに実現したことを大胆に述べているのであります。わたしたとも、終わりの日に主がおいでになられるときまで、聖霊に与っている者として、この曲がった時代にあってなかなか信じようとしない人々へも、まだ聖書の出来事を知らないでいる周囲の方々へ大胆に救い主イエスを宣べ伝えて行きましょう。
祈ります。
天の父なる神さま。
 私たちは、聖霊を受けて教会に来、聖霊による説教を長く聴いてついには、洗礼を受けた者がほとんどであります。求道中の方も、この聖霊の約束に与かることが来ますように。
そして主イエスの日、終わりの日まで大胆に私たちが主を宣べ伝え、共々に主にある救いを仰ぎ見ることができますように。今週も、みことばから離れないで、新しい1週間を歩ませてください。キリストによって祈ります。アーメン。



2005/05/15(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまが聖書を悟らせてくださる」(ルカ24:44~53)
ルカ24:44-53、2005・05・08、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソ1:15-23

ルカ福音書24章44節~53節
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

説教「神さまが悟らせてくださる聖書」(ルカ24:44~53)
 
本日は昇天主日であります。本日の第一の朗読、使徒言行録の1章にありますように、復活の主は、40日間、弟子たちのもとに現れ、教えをなさった後、天に上げられました。
今年は、5月5日が昇天日で、本日5月8日が昇天主日であります。そして、次週は聖霊降臨祭、ペンテコステとなります。主のご昇天の出来事を通して、そして、聖霊降臨の出来事を通して、主イエスの時代から、教会の時代へと歴史は大きく移っていくのであります。
 本日与えられている福音、ルカ24章の44節から53節を通して、主のご復活とご昇天の意味についてしばらく考えてみたいと思います。
 本日の福音は、44節から49節と、50節から53節の前半部分と後半部分からなっています。順次、それに従って、考えていきましょう。まず、本日の出来事は、あたかも、復活祭の日曜日の一日の間に、主のご復活から、ご昇天に至るまでの出来事がすべて起こったかのごとく、一気に書かれているとも考えることができます。しかし、同じルカによる第二の書、使徒言行録によれば、主イエスは、40日間、弟子たちの下に姿を現し、教えを宣べ伝えた後に、天にあげられたのであります。また、マタイやヨハネによれば、弟子たちは、ガリラヤに帰って、そこで、復活の主とまみえているのであります。これは、どういうふうに考えればよいのでしょうか。福音書を書いたときのルカは、使徒言行録を書いたときに、入手していた資料をまだ知らなかったのかもしれません。しかし、ルカの本日の記事をよく読みますと、必ずしも、復活日の同じ一日において、昇天の出来事が起こっているとは、断定できないのであります。あたかも、一日のうちに、事が進んだかのような印象も受けますが、これは、何日間かかなりの期間にわたった出来事を、ルカは要約して書いているとも、考えられるのであります。
 本日の文章は、エマオからエルサレムに戻った二人の弟子たちと使徒たちのいるところに、主が復活の肉体をもってご自身をお示しになった出来事に続いて、始まっています。
「そして、彼は、彼らに言われた」とつながっているのであります。復活の主が、何を言われたかが、44節から49節で要約されているのであります。すなわち、主はこう言われました。まず、「モーセの律法と、預言者たちと詩編において、私について書かれているすべてのことは、満たされることになっている。このことは、私があなた方といたときに、私があなた方に語っていたことである」と。律法の書と預言者たちの書と詩編は、旧約聖書を指す三分割の言い方であります。特に詩編は、メシアについての言及が多いものと当時考えられていました。マルチン・ルターは、聖書の作者は、イエスであるとまで言い切っています。私たちが、旧約聖書を漫然と読んでいきますときには、それが、イエスについて書いてあるとは到底思えない部分がいっぱいあるように感じます。いや、むしろ、イエスの受難、復活、昇天について、はっきりと預言して書かれてある記事はどこにあるのだろうかとも感じます。現代の私たちにとって、無意味だとさえ思われる部分が一杯あるようにも思えます。しかし、主は、旧約聖書は、私について書かれたものであるとヨハネ福音書でも断言されています。「人の子は、律法学者や祭司長たちや長老たちによって、拒まれ、殺され、三日目に死人のうちから、よみがえる」と生前の主イエスが三度も予告したように、そのようなメシアが来られることを、旧約聖書は、告げているものとして、読むべきものなのであります。主は、そして、彼らを助けて、聖書を悟る理解力・洞察力を与えられたのであります。新共同訳聖書は、「彼らが聖書を悟るようにその心の目を」開かれたと訳しています。復活の主イエスが弟子たちの前に姿を現したのは、聖書すなわち、彼らにとっては今の旧約聖書を理解させるためでありました。聖書が理解できるようになるのは、私たちの才能や努力によることではなく、復活の主が私たちの鈍い心、理解力を開いて、心の目を開いてくださるからであります。確かに何年もかけて教会に通うことを通して聖書や説教が少しずつわかるようにされるのでありますが、聖書の救い、すなわち、主イエスの誕生、受難、十字架の死、復活、そして、昇天の出来事の意味が復活の主ご自身の語りかけや聖霊のとりなしによって、神様の側からの賜物として私たち信者に、また、求道者に見出されていくのであります。 主はそして、彼らに言われるのであります。すなわちこう書かれていると。「メシアは、苦しみを受け、三日目に死人のうちから復活する、そして、彼の名の上に、すべての民に対して罪の赦しに至らせる悔い改めが宣べ伝えられる」と。復活の主イエスは、洗礼者ヨハネがといたと同じ宣教を、また、12使徒派遣や72人の弟子たちの派遣と同じ内容の悔い改めの宣教を繰り返されます。しかし、それは、ユダヤ人のみならず全世界へ向けての派遣であります。「エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。そして見よ、私は、あなた方に向けてわたしの父の約束したもの、すなわち聖霊を送る。あなた方は上よりの力を身にまとうまでこの都に座っていなさい」と告げられたのであります。
 そして、主のご昇天の後半部分へと移っていきます。そして、主は彼らをベタニアのあたりまで外へと連れ出します。そして主は、両手をあげて彼らを祝福なさいます。そして起こったことには、彼が彼らを祝福するにおいて、彼は彼らから離れます、そして、彼は天へと取り上げられつつありました。彼らは、彼にひれ伏し、そして、大喜びで、都へと引き返しました。そして、絶えず神殿にいて、神をほめたたえていたと、ルカ福音書は結論として書き終えられているのであります。もし、記者が虚構を書いたとすれば、師との別れは悲しみであったと書いたことでありましょう。しかし、彼らは大喜びで指示に従って、エルサレムに戻ったのであります。それは、聖霊を約束されたからでもあり、主の祝福を受けたからでもあり、聖書を悟る心の目を開かれたからでもあったでしょう。そして、使徒たちは、「絶えず」神殿にいて神をほめたたえていたのであります。神殿でイスラエルの贖いを哀願している祭司ザカリヤではじまったルカ福音書は、大祭司イエスの祝福によって、神殿で新しい教会の時代を生き始めた弟子たちの喜びによって、終わっているのであります。私たちも、本日の出来事を通して、新しい時代に生きる者とされています。疑いや迷い、サタンとの戦いは続きますが、私たちは、上よりの力を着て、また、キリストを着て生き、あらゆる試練を乗り越えることができるものとされているのであります。心の方向転換をし、神に心を向けて歩ませて頂く1週間へと新たに派遣されていきましょう。



2005/05/13(金) 13:45:10| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神さまが聖書を悟らせてくださる」(ルカ24:44~53)
ルカ24:44-53、2005・05・08、昇天主日
使徒言行録1:1-11、エフェソ1:15-23

ルカ福音書24章44節~53節
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

説教「神さまが悟らせてくださる聖書」(ルカ24:44~53)
 
本日は昇天主日であります。本日の第一の朗読、使徒言行録の1章にありますように、復活の主は、40日間、弟子たちのもとに現れ、教えをなさった後、天に上げられました。
今年は、5月5日が昇天日で、本日5月8日が昇天主日であります。そして、次週は聖霊降臨祭、ペンテコステとなります。主のご昇天の出来事を通して、そして、聖霊降臨の出来事を通して、主イエスの時代から、教会の時代へと歴史は大きく移っていくのであります。
 本日与えられている福音、ルカ24章の44節から53節を通して、主のご復活とご昇天の意味についてしばらく考えてみたいと思います。
 本日の福音は、44節から49節と、50節から53節の前半部分と後半部分からなっています。順次、それに従って、考えていきましょう。まず、本日の出来事は、あたかも、復活祭の日曜日の一日の間に、主のご復活から、ご昇天に至るまでの出来事がすべて起こったかのごとく、一気に書かれているとも考えることができます。しかし、同じルカによる第二の書、使徒言行録によれば、主イエスは、40日間、弟子たちの下に姿を現し、教えを宣べ伝えた後に、天にあげられたのであります。また、マタイやヨハネによれば、弟子たちは、ガリラヤに帰って、そこで、復活の主とまみえているのであります。これは、どういうふうに考えればよいのでしょうか。福音書を書いたときのルカは、使徒言行録を書いたときに、入手していた資料をまだ知らなかったのかもしれません。しかし、ルカの本日の記事をよく読みますと、必ずしも、復活日の同じ一日において、昇天の出来事が起こっているとは、断定できないのであります。あたかも、一日のうちに、事が進んだかのような印象も受けますが、これは、何日間かかなりの期間にわたった出来事を、ルカは要約して書いているとも、考えられるのであります。
 本日の文章は、エマオからエルサレムに戻った二人の弟子たちと使徒たちのいるところに、主が復活の肉体をもってご自身をお示しになった出来事に続いて、始まっています。
「そして、彼は、彼らに言われた」とつながっているのであります。復活の主が、何を言われたかが、44節から49節で要約されているのであります。すなわち、主はこう言われました。まず、「モーセの律法と、預言者たちと詩編において、私について書かれているすべてのことは、満たされることになっている。このことは、私があなた方といたときに、私があなた方に語っていたことである」と。律法の書と預言者たちの書と詩編は、旧約聖書を指す三分割の言い方であります。特に詩編は、メシアについての言及が多いものと当時考えられていました。マルチン・ルターは、聖書の作者は、イエスであるとまで言い切っています。私たちが、旧約聖書を漫然と読んでいきますときには、それが、イエスについて書いてあるとは到底思えない部分がいっぱいあるように感じます。いや、むしろ、イエスの受難、復活、昇天について、はっきりと預言して書かれてある記事はどこにあるのだろうかとも感じます。現代の私たちにとって、無意味だとさえ思われる部分が一杯あるようにも思えます。しかし、主は、旧約聖書は、私について書かれたものであるとヨハネ福音書でも断言されています。「人の子は、律法学者や祭司長たちや長老たちによって、拒まれ、殺され、三日目に死人のうちから、よみがえる」と生前の主イエスが三度も予告したように、そのようなメシアが来られることを、旧約聖書は、告げているものとして、読むべきものなのであります。主は、そして、彼らを助けて、聖書を悟る理解力・洞察力を与えられたのであります。新共同訳聖書は、「彼らが聖書を悟るようにその心の目を」開かれたと訳しています。復活の主イエスが弟子たちの前に姿を現したのは、聖書すなわち、彼らにとっては今の旧約聖書を理解させるためでありました。聖書が理解できるようになるのは、私たちの才能や努力によることではなく、復活の主が私たちの鈍い心、理解力を開いて、心の目を開いてくださるからであります。確かに何年もかけて教会に通うことを通して聖書や説教が少しずつわかるようにされるのでありますが、聖書の救い、すなわち、主イエスの誕生、受難、十字架の死、復活、そして、昇天の出来事の意味が復活の主ご自身の語りかけや聖霊のとりなしによって、神様の側からの賜物として私たち信者に、また、求道者に見出されていくのであります。 主はそして、彼らに言われるのであります。すなわちこう書かれていると。「メシアは、苦しみを受け、三日目に死人のうちから復活する、そして、彼の名の上に、すべての民に対して罪の赦しに至らせる悔い改めが宣べ伝えられる」と。復活の主イエスは、洗礼者ヨハネがといたと同じ宣教を、また、12使徒派遣や72人の弟子たちの派遣と同じ内容の悔い改めの宣教を繰り返されます。しかし、それは、ユダヤ人のみならず全世界へ向けての派遣であります。「エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。そして見よ、私は、あなた方に向けてわたしの父の約束したもの、すなわち聖霊を送る。あなた方は上よりの力を身にまとうまでこの都に座っていなさい」と告げられたのであります。
 そして、主のご昇天の後半部分へと移っていきます。そして、主は彼らをベタニアのあたりまで外へと連れ出します。そして主は、両手をあげて彼らを祝福なさいます。そして起こったことには、彼が彼らを祝福するにおいて、彼は彼らから離れます、そして、彼は天へと取り上げられつつありました。彼らは、彼にひれ伏し、そして、大喜びで、都へと引き返しました。そして、絶えず神殿にいて、神をほめたたえていたと、ルカ福音書は結論として書き終えられているのであります。もし、記者が虚構を書いたとすれば、師との別れは悲しみであったと書いたことでありましょう。しかし、彼らは大喜びで指示に従って、エルサレムに戻ったのであります。それは、聖霊を約束されたからでもあり、主の祝福を受けたからでもあり、聖書を悟る心の目を開かれたからでもあったでしょう。そして、使徒たちは、「絶えず」神殿にいて神をほめたたえていたのであります。神殿でイスラエルの贖いを哀願している祭司ザカリヤではじまったルカ福音書は、大祭司イエスの祝福によって、神殿で新しい教会の時代を生き始めた弟子たちの喜びによって、終わっているのであります。私たちも、本日の出来事を通して、新しい時代に生きる者とされています。疑いや迷い、サタンとの戦いは続きますが、私たちは、上よりの力を着て、また、キリストを着て生き、あらゆる試練を乗り越えることができるものとされているのであります。心の方向転換をし、神に心を向けて歩ませて頂く1週間へと新たに派遣されていきましょう。



2005/05/08(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「真理の霊が来られる」(ヨハネ14:15~21)
ヨハネ14:15-21、2005・05・01、復活後第5主日(白)
使徒言行録17:22-34、ペトロの手紙3:8-17

ヨハネ福音書14章15節~21節
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」


説教「真理の霊が来られる」(ヨハネ14:15-21)
 
 復活節は、使徒言行録第1章によれば、主イエスが弟子たちのもとに、40日間にわたって現われになったことに基づき、復活祭から40日目が昇天日となり、今年は今週の5月5日となります。従って、次の週は既に昇天主日となります。復活節の終わりに近づいてきた本日、復活後第5主日に与えられています福音書の箇所は、先週の部分に続くヨハネ福音書14章15節から21節までの短い箇所であります。いわゆる告別説教の最初の章14章の中の一部分であります。ここが、主のご復活を覚えるために、与えられている意味について、しばらく、ご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、この告別説教といわれる部分は、主が出発なさるというテーマと、再び主が戻って来られるというテーマが繰り返し出ますし、弁護者、あるいは、真理の霊と呼ばれるお方、すなわち、聖霊がやって来られることが、繰り返し出てきます。他にも同じような表現や思想が14章から17章までにわたって、繰り返されています。これは、主イエスが十字架におかかりになる前の晩に、最後の晩餐の席で弟子たちに向けて語ったものとして、現在の文章のようにまとめられていますが、口頭伝承や文書として伝えられていたものを、福音書記者ヨハネが、なるべくそのまま残して、編集したものであるために、そのような重複した表現や思想が残されているのだと考えられます。いろいろと、実際に主イエスがなされたとおりの告別説教の筋書きを復元しようとする試みもなされてきましたが、現在の私たちに残されている聖書をその通りに読んで、そのまま主イエスのなされた弟子たちとの最後の説教あるいは講話として素直に理解しても、特に支障はないと思います。
 本日の主イエスの語られた講話あるいは説教をもう一度ずつ1節ずつ思い起こしてみましょう。主イエスは、まず、「あなたがたが私を愛するなら、あなたがたは私の掟を守るであろう」と言われます。「私の掟を守る」とは、主イエスの指針、命令、すなわち、「主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも相互に愛し合うということ」であります。「そうすれば、私もわたしの父にお願いしよう、そうしたなら、父は、『別の弁護者』をあなた方に与えるだろう、そして、その方はあなたがたと共に永遠にいるであろう」と言われます。この弁護者というのは、もともと、法廷の弁護士、法的なアシスタントを意味しましたが、告別説教の中では、むしろ、この世界の不信仰を弾劾する検察官のような、裁く働きをも示しています。しかし、その他に、勧めをなす者、励ます者、あるいは、慰めをもたらす者という側面もあります。主イエスに代わって、主イエスの言葉を想起させ、主イエスの働きを代行なさるお方、それが、弁護者、パラクレートス、すなわち、聖霊であります。すなわちそれは、真理の霊で、偽りや欺きの霊ではなく、真理へと私たちを教え導く霊であります。
主は、この真理の霊を世界は受け入れることができない、なぜなら、世界はそれを見ないし知らないからであると言われます。主イエスが出発する、そして弟子たちのもとから出て行くというのは、この真理の霊が来られるようになるためであります。私たちが教会に来たのは、そしてまた、洗礼を受けたのは、自分の決心とか努力や意志によって、あるいは大変な悲しみによってなどであると私たちは考えがちですが、実は私たちが、教会につながることができているのも、この真理の霊によって導かれたのであります。
 主は続けて言われます。「しかし、あなたがたは、それを知っている、なぜなら、それはあなた方のところにとどまっておられるし、あなた方においておられるであろうから」と。教会という場所に聖霊はとどまっていますし、また、私たちキリスト者の交わりの間にそれはずっとおられるであろうから、と言われるのであります。そして、主は、私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなた方のところにやって来ると言われるのであります。先生であるイエスは、その弟子たちを、離別のままに放っておかれることはなく、また弟子たちのもとに戻られると言われるのであります。主はこれから、出発なさろうとしておられますが、また、弟子たちの下にやって来られると前もって約束なさったのであります。それは、直接的には、十字架の死とその後の復活を意味しているでありましょう。そのときは、一体何のことか弟子たちにはわからなかったでありましょう。しかし、弟子たちとの離別・死別は、悲しみのままで終わることはないと主は前もって確かに宣言されたのであります。
 主は言われます、もうしばらくすれば世界は私をもはや見ない、しかしあなた方は、私を見る、すなわち、私は生き、あなたがたも生きることになろう、と言われます。確かにこの世界は、主イエスの死によって、主の働きは終わったとし、復活そして、主にある新しい命を認めないのであります。しかし、主は言われます、「かの日には、あなた方は知るであろう、すなわち私が私の父においており、あなた方が私においており、私があなた方においていることを」と。「かの日」とはいつでありましょうか。それは、直接には、復活の日でありましょうし、さらには、再来の日、主の再臨の時、いつか来る終わりの日をも暗示しているでありましょう。「父と子と私たち」は、しかし、復活の出来事により一体となり、今も相互の交わりに結ばれているのであります。
 そして、主は最後に、「私の掟を持っている者、それらを守る者、その者は、私を愛する者である」と、ちょうど、本日の箇所の最初の節で言われたことを逆にして言われるのであります。主の掟、すなわちあなたがたは互いに愛し合いなさいという指針・命令をただ単に、了解し認識するだけではなく、堅く保持し、実行することが、主を愛することになるのであります。それは実際言うは易く、実行するのは非常に困難なことであります。
しかし、さらに主は言われます。「私を愛する者は、私の父によっても愛されるであろうし、私も、彼を愛するであろうし、私は彼に自分自身を現すであろう」と。
 主イエスの捕縛と十字架の死によって、いったんは、弟子たちはばらばらに離散し、うちのめされ、うちひしがれることになります。しかし、主は、十字架の死へとあげられ、埋葬され、そして、復活を通し、また昇天をへて、主は約束の通り、弁護者、真理の霊を送ってくださいました。今もそれは続いているのであります。告別説教で主が約束されていたお言葉を、弟子たちは、復活と主のご昇天を通し、与えられた聖霊、慰め主、真理を教える霊を通してついには悟ることができました。それから、2000年近くたった現在も、この世界は、この真理に導く霊を見ようとしません。人間の理性や本性からはそれを理解することはできないのであります。しかし、私たちは、主がお命じになった掟、「互いに愛すること」を通して、み子が父においておられ、私たちがみ子においており、み子も私たちのうちにおられることを、この世界に知らしめていく責任を負っているのであります。主イエスが私たちのもとから出発なさったおかげで、聖霊を通し、私たちは父なる神、そして子なる主イエスと永遠に一体であり、神さまが私たちと共におられることを知ることができるようになったのであります。
一言祈ります。父なる神さま。あなたは今もみ子と共におられ真理の霊を送って下さっています。私たちキリストを信じる者が、互いに愛することを通して、私たちの罪のために肉をまとって人間の形をとり、死んでよみがえられた方を終わりの日まで崇めまつることができますように。キリストによって祈ります。アーメン。





2005/05/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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