津田沼教会 牧師のメッセージ
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「私は道、真理、命である」(ヨハネ14:1~14)
ヨハネ14:1-14、復活後第4主日(白)
使徒言行録17:1-15、ペトロの手紙一2:4-10

ヨハネ福音書14章1節~14節
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


説教「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:1-14)
 本日は復活後第4主日であります。先週は、ヨハネ福音書10章の1節以降から、「私は羊の門である」という言葉が読まれました。私たちは真実な主のみ声を聞き分けると教えられたのでありました。
本日は、「私は道であり、真理であり、命である」という本日の箇所の中に深まれています主のみ言葉をそのまま説教題にしました。復活節に本日の箇所ヨハネ福音書14章1節から14節が与えられている意味についてご一緒に考えましょう。これは、告別説教と呼ばれる部分の最初の箇所であります。主イエスが捕らえられる直前に弟子たちに前もってこれらの言葉を語ることにより、弟子たちがその後、すなわち、主の捕縛と十字架刑の後に、そして主のぐ復活の出来事の後に、弟子たちが立ち直り、励まされるために残した言葉であります。「あなたがたの心を揺り動かされないように」と、主はまず言われました。これは、水が激しくかきまぜられるといった意味の言葉であります。
本日の箇所は、あくまでも、弟子たちが信仰をなくさないようにとの励ましのお言葉であります。そして、「あなた方は神を信じなさい、また、私を信じなさい」と言われます。「私の父の家には、多くの住居がある。もしなければ、私はあなた方に、場所を用意しに行くといっただろうか。そこに行って後、場所を用意したら、またあなた方のところにやって来る」と言われます。
それは、再臨のときのことでしょうか。それとも、復活後に弟子たちに姿を現すことを言っておられたのでしょうか。主は、「私がどこへ行くかあなた方はその道を知っている」と言われました。すると、トマスが「私たちはあなたが行くところ、その道を知りません。どうして、知ることができましょうか」と質問しました。疑い深い、あるいは、真理を理解するのが遅い、ディドモと呼ばれた、双子あるいは二重性を意味したトマスらしい質問です。
それに対して主は言われます、「私は道であり、真理であり、命である」と。そして「わたしによらないでは、だれも、父のもとにやってくることはできない」と。私こそ、父なる神への真理と永遠の命への唯一の道であると言われるのであります。フィリポが今度は願い出ます。告別説教とは弟子たちとの最後の対話でもあるのです。「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」と。主は、「フィリポ、あなたは私とこんなに長くいるのに、私のことがわからないのか。私を見たものは父を見たのである」と言われます。そして、「私は父においており、父はわたしにおいておられる」と言います。さらに「あなたがたが私の言う言葉を信じないのなら、むしろ、わたしにおいてなされている業(わざ)を信じなさい」と言われます。そして「あなたがたは、わたしのわざをおこない、わたしのわざよりももっと偉大な業をあなたがたはなすであろう」と約束なさいいました。父のもとに、主が出発され、父とともに、わたしたちの働きにおいて、主がともにいてくださるからであります。このことはまた、み子を信じないこの世界をさばくことにもなると、主は語っておられるのであります。「あなたがたは、わたしの名において、何でも要求しなさい」と言われます。そしてあなた方が要求したそのことを、主ご自身がするであろうと、おっしゃってくださいます。私たちは、この世界にあって、目に見える迫害は今はなくても、しかしそれと同じように大きな困難やいろいろな障害にこの世界にあってはぶつかるように、神様によって定められています。けれども、主は、本日のみ言葉をもって、ご自分が、弟子たちを後に残し、またそれ以後の私たち信者を後に残すにあたって、私たちを守り、励ますために、本日のお言葉を残し、与えててくださいました。そして、父のもとに主は出発なさり、復活とともに、再臨の日に至るまで、私たちを力づけていてくださいます。主イエスこそ神に至る唯一の道であり、救いの目標であります。この世界において強く生きながら、この救いの出来事を、周囲の人々にも是非知らせていきたいものであります。人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。


 

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2005/04/24(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「真実の声を聞き分ける」(ヨハネ10:1~16)
ヨハネ福音書10:1-16、2005・04・17、復活後第3主日(白)
使徒言行録6:1-10、ペトロの手紙一2:19-25

ヨハネによる福音書10:1~16
 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。私より前に来たものは皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。-彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

説教「真実の声を聞き分ける」(ヨハネ10:1-16)
 復活祭を今年は3月27日に祝ってから、本日で4回目の日曜日を迎えました。本日は、その福音として、ヨハネ福音書10章1節から16節が与えられています。本日からは復活の出来事そのものから、少し離れて、主イエスの譬えの言葉や文章が与えられています。なぜ、本日のこの箇所が復活節に与えられているのかその意味についてしばらくご一緒に考えてみましょう。
 「よくよくあなたがたに言っておく」と言う言葉で、本日の「譬え」、それは格言、あるいは、謎の言葉とも訳される言葉ですが、それらは始まっています。羊飼いは、戸口を通って入ってくる。それ以外の場所からよじ登って入ってくる者は泥棒であり、強盗である、と主は語りはじめられます。
 そして、羊たちは、その声を聞き分け、羊飼いもその羊を名前によって、呼ぶと羊は彼に従ってついてくるというのであります。ここで、たとえられている羊というのは、私たち、主イエスを信じる者たちであります。羊であるわたしたちは、羊飼いの声、すなわち主イエスの声をを聞き分け、羊飼いでない者にはついていかない、と主は言われるのであります。今日の世界には、いろいろな、主イエスとは違っているが、私たちを呼び入れ、それについてこさせようとする声があふれています。しかし、その中にあって、私たちは、真実なお方である主イエスにのみついていかねばなりません。主イエスと間違ってついていくことがないように、私たちは、常に聖書に聞き、真実の主イエスと、みせかけだけの主をはっきりと区別できるようにしておくことが求められます。
 主は「わたしは羊たちの門であり、わたしより先に来たものは、強盗であり、盗人である」と言われました。それは、この譬えを聞いていたファリサイ派の人々を特に指していたでありましょう。主は、「わたしこそ、門であり、羊たちは、そこを通って、救いにあずかり、そこを出入りして、外の牧草すなわち、永遠の命にありつける」と言われます。イエスという門を出入りして、救いに与かり、主イエスによってこそ彼らは命をもち、しかも豊かにそれを持つと言われます。
 私たちの周りには、特に、日本においては、主イエスではなく、それに似た、救いをもたらしてくれそうな生き方やあるいは情報などもめまぐるしく渦巻いています。しかし、イエスという門を通って入って来ない者は、強盗であり、盗人であると、言われます。彼らがやってくるのは、羊を追い散らし、滅ぼすためでしかありません。また、雇い人も狼がきて、危険が迫ると羊たちを後に残して逃げ去ります。彼らは、羊たち、イエスを信じている私たちの安全や平安には関心がないのです。しかし、羊飼いは羊を知っており、羊も彼を知っている。それはちょうど、「父がわたしを知っておられ、わたしも、父を知っている」のと同じだと言われます。そして、主は、今から約2000年前に「今の囲いに入っていない羊たちをも私は集めることになっている」と言われました。それは、今の私たちのことでありました。すなわち、全世界に散らばっている、主イエスを羊飼いとして認める、私たち異邦人だったものの群れ、世界中の教会に属する者のことでありました。 私たちは、主イエスの声を真実だと聞き分けることができます。主はそのように約束されているのであります。先日逝去されたヨハネ・パウロ二世は、主イエス・キリストの声を伝える勇敢な証し人でありました。このローマ法王の召される時の最期の言葉は「アーメン」であったと報じられていました。私たちもそれぞれ、この日本社会の中で、主が預言されておられるように、まだその囲いに入っていない羊の群れに対し、私たちの周囲の人々に対して、真実の声、主イエスについて紹介する責任を負っています。主は、十字架と復活によって、ご自分の命をわたしたちのために、差し出し、置いてくださいました。それは、私たち散らばっていた羊を一つの群れとして集め、一人の羊飼いであるご自分のもとに私たちを憩わせるためであったのです。そのことを、想起しながら、この一週間も、少しでもみ心にかなった生活と証しをしたいものであります。人知では到底測り知ることのできない平安が、キリスト・イエスにあってあなたがたを守るように。アーメン。
2005/04/17(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:24~25)
ヨハネ20:24-29、復活後第2主日(白)
使徒言行録2:36-47、ペトロの手紙一1:17-21

ヨハネによる福音書20章24節~29節
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

説教「私の主、私の神よ」(ヨハネ20:24-29)
 
私たちは、今年は3月27日に迎えた復活祭から始めて、ここのところ、ヨハネ福音書によって、主のご復活について学んでいます。復活祭に、空の墓と、主イエスに会ったマグダラのマリアの出来事、そして、先週は、12弟子たちのところに、復活の主が現れた記事を読みました。本日のヨハネ福音書20章24節から29節はそれに続く、しかし、本来、別個に伝えられた伝承記事をヨハネ福音書記者が構成したもののようであります。
 本日の記事を思い起こしながら、ご一緒にしばらく、主イエスが復活させられた意味について考えてみましょう。
 それはまず、週のはじめの日に、主が復活された日の夕方、死と罪に恐れて、隠れ家に鍵をかけていた時に、それを越えて、主が入ってこられ、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちの真ん中に立って言われ、弟子たちはそれを見て喜んだのでありました。そして、弟子たちは主イエスから息を吹きかけられ、聖霊を受けて、派遣され、罪を赦すことのできる力を主から与えられたのでありました。
 それに続く出来事として、ヨハネ福音書記者は、本日の出来事を追加しているのであります。それは、主のご復活の日から八日目のことであります。当時のユダヤ人の日数の数え方は、その始めの日と終わりの日を含むものでありましたので、それはちょうど1週間後の日曜日のことであります。記者はここで、最初に、弟子たちが復活の主にお会いしたときには、12人の一人、ディディモとも呼ばれるトマスは、共にいなかったと記しています。それで、彼らはトマスに、「私たちは、主を見た」と語ると、トマスは、答えて言います。「私は、主イエスの両手の釘跡を見、その釘跡に指を入れ、また、彼のわき腹に手を入れなければ、決して信じないであろう」と。トマスといい、ディデュモという名前は、双子とかあるいは、二重性を持った人物であることを表しているのかもしれません。ヨハネ福音書のほかの箇所を見るとき、トマスは、死んだラザロのいるベタニアに主が帰ろうとされたときに、「われわれも一緒に行って主と共に死のうではないか」と述べたり、また、主があなたがたのために場所を用意しに行くが、私が行くところにあなたがたは今は行くことができないと言われたときに、なぜ私たちは行くことができないのですかと尋ねた人物として、記されています。理解する力が鈍かったり、遅かったりするが、最後まで主イエスに対しては、真実なものとして従っていく人物であり、それは、復活の主に直接出会ったことのない現代の私たち信者の代表的存在であるともいえましょう。
 さて、今回は、弟子たちは再び、家の中におり、トマスも一緒にいました。そこに、同じようにかんぬきをかけていたのに、主イエスが入ってこられて、やはり真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」、と言われるのであります。この場面は、このヨハネ福音書が書かれた紀元後100年ころに、弟子たちが守っていた礼拝、特に聖餐を前提としていると考えられるのであります。
 主は、次に、トマスに向かって、続けて言われるのであります。「わたしの両手を見なさい、そしてこの釘跡にあなたの指を入れなさい、そしてあなたの手を私のわき腹に入れなさい。そして、信じない者ではなく、信じる者であることを示しなさい」と主は、すぐ前に、トマスが求めたとおりにするように、トマスに語られたのであります。トマスは、非常に驚いたことでありましょう。自分の求めた要求を主はすべて知っておられ、その通りするようにと、主は示されたのであります。このときの絵を「疑うトマス」と題して、カラヴァッジオという画家が描いています。1601-2年ごろの作品であります。それによれば、トマスは額にしわを寄せ、ほかの二人の弟子たちによって支えられながら、わき腹の傷跡にトマスは手をつけているのであります。
 しかし、問題なのは、見ることと、信じることとの対比であります。トマスがそのとき、実際に手をあてたのか、あるいはどういうふうにふるまったかは、あまり問題ではありません。大事なことは、そのとき、トマスは、「私の主、わたしの神よ」と心から叫んだことであります。主は言われました。「あなたは私を見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と。
 このヨハネ福音書がかかれたころの信者たち、弟子たちは、既にその殆どが、復活の主に出会ったことのない人々でありました。今日の私たちも、同じように復活の主を直接に見ることはできません。
 しかし、私たちは、復活の主に出会った弟子たちの証言と、聖書に記されている主のみ言葉、あるいは、聖書全体を通して、同じ復活の主を受け入れ、信じることができます。洗礼を受けて、礼拝に出られている本日の会衆のほとんどの皆さんは、すでに、この復活の主を「私の主、わたしの神」として、直接には見ることはできないけれども、信じているものたちであります。  
 しかし、私たちも、聖書を読み始めたころには、いろいろな疑問が、皆さんにもあったことでしょう。しかし、それを超えて、私たちは、先輩の信者の兄弟姉妹を通して、また、牧師や宣教師や役員などの証言や説教、勧めなどをとおして、復活の主を信じるものとされたのであります。
 しかし、洗礼を受け、聖餐にあずかり、復活の主を信じている今も、多くの困難なことや死による別離の悲しみや、病気との闘い、あるいは、疑惑や罪との戦いが、終わりの日まで私たちそれぞれに引き続いて起こるのであります。しかし、最初は疑ったが、主に最後には徹底して信仰告白をし、「私の主、わたしの神よ」と叫んで、従っていったトマスを、私たちの大先輩として、共々に従っていこうではありませんか。
天の父なる神さま。
 復活節を、私たちは現在祝っています。しかし、多くの課題や未解決の困難な問題をそれぞれが担っています。どうか、わたしたちが、どのようなときにも、十字架の死に打ち勝ってご復活させられた主イエスとあなたの憐れみによって、常に新しく生きていくことができますように。既に死と罪を打ち破られたあなたに、どこまでも従順に、謙遜に生きていくことができますように。キリストによって祈ります。アーメン。
2005/04/10(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「生き生きとした希望」(ヨハネ20:19-23)内海望牧師
ヨハネ20:19-23、2005・04・03、復活後第1主日
使徒言行録2:22-32、ペトロの手紙一1:3-9、

ヨハネによる福音書20章19節~23節
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

説教「生き生きとした希望」(ヨハネ20:19-23)内海望牧師

 イースターの出来事は決してドラマティックではありませんでした。復活のイエスさまに出会ったのに、現実には弟子たちはおびえていたのです。復活を信じられないという点では、2000年前も現代も変りはないのです。
 19節。イエスさまが復活された日の夕方、弟子たちは暗い部屋に閉じこもっていました。彼らは、イエスさまを殺した人々が自分たちも殺すかも知れないという死の恐怖から、この世から離れ、内側からしっかりとかんぬきを下ろして、じっと身を寄せ合っていたのです。それだけではありません。彼らは、今、目を伏せて、自分たちが卑怯にもイエスさまを見捨てて逃げ去ったことを思い(マタイ26:56)、イエスさまを知らない、と言った自分の裏切りを思い、深い罪の思いに沈んでいたのです。
 確かに、死は絶対的な力をもっているように見えます。親しい者の死に出会うとき、もはやこの人には会えないことを知らされます。別離、それが死の恐ろしさであり、悲しみなのです。多少の延命は出来ても、人間の力ではどうすることも出来ないのです。
 罪も同じです。「もう決して罪は犯すまい」と身もだえして決心しても、私たちは自分の利益のためには友も、尊敬する教師も裏切るのです。人間の心は自己愛から離れることは出来ません。自分の犯した罪でありながら、自分の力ではどうしても克服できないのです。原罪という言葉を信ぜざるを得ないのが私たちの現実の姿です。
 私たちも、自分の「罪と死」について真剣に考えれば考えるほど、この弟子たちのように心の内側からかんぬきをかけて暗い世界に閉じこもってしまうのです。事柄は自分の力ではどうしようもないだけにいっそう深刻です。26節にも同じ描写があることを考えると、弟子たちの心の暗闇がよく分かります。
 19節後半。ところが復活のイエスさまにとっては「扉」も「かんぬき」も何の妨げにもなりませんでした。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』と言われた」と書かれています。人間の力ではどうすることも出来ない「死と罪の壁」、それを復活のイエスさまはいとも軽々と乗り越え、私たちの真ん中に立たれるのです。「真ん中」という言葉に注意してください。「弟子たちの真ん中に」ということは、「今、ここでも」ということなのです。それは決して「弟子たち、あるいは私たちがイエスさまの御許に辿り着き、やっと信じることが出来た」ということではありません。イエスさまが、信じることの出来ない弟子たちの真ん中に来てくださったのです!
 しかし、実はイエスさまの道は決して「軽々とした道」ではありませんでした。イエスさまは私たちの罪のために鞭打たれ、苦しみ、死の痛み、苦しみを極限まで経験され、そして復活された方です。その方が、おびえ、信じようとしない弟子たちに対し「平和があるように」と語りかけ、「息を吹きかけて」下さったのです。この出来事は、聖霊による新しい命の息吹き、新しい創造を意味します。この復活の命によって、私たちは再びこの世を生き抜く力を与えられるのです。
 人間は希望なしには生きていけません。[東京大空襲]。これは希望的な観測であり、嵐が過ぎ去るのをじっと耐える力と言えます。これは大切なことでしょう。 しかし、今、「罪と死に打ち勝ち」私たちの真ん中に立たれる復活のイエスに出会った時、弟子たちは、「生き生きとした(永遠の)希望を」(ペトロの手紙)与えられたのです。使徒言行録はこう語ります。「わたしはいつも目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので、わたしは決して動揺しない。・・・」(使徒言行録2:25=詩編16編)。
 何れも躍動感に満ちた文章であり、心を開き、聖霊の力を胸一杯に吹き込まれた者の喜びを感じさせます。人間の力では克服することの出来ない「罪と死」の痛みと悲しみを潜り抜け、私たちにいのちを与えるために「私たちの真ん中に立たれる主イエス!」。
 この方が、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れた生き方」(ペトロ1:8)を与えてくださったのです。信じる者すべてに与えられる喜びと希望です。これを得るためには、私たちは疑いの心を捨て「心を空にし」、大きく息を吸い込むことが大切です。
 私たちに新しい命の息を吹き込まれた復活のイエスさまは、更に「あなたがたを遣わす」とこの世界への派遣(進軍)命令を下されます。それは「生き生きとした希望に満ちた生き方」を人々の間で生きよ、という命令なのです。世界には、わたしたちの周囲には心を暗くする出来事が数多くあります。その中で、希望を伝える群れとなりましょう!
 
2005/04/03(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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