津田沼教会 牧師のメッセージ
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「復活の主にまみえる」(ヨハネ20:1-18)
ヨハネ20:1~18、復活祭(白)、2005・03・27
使徒言行録10:39-43、コロサイの信徒への手紙3:1-4

ヨハネによる福音書20:1~18
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


説教「復活の主にまみえる」(ヨハネ20:1-18)
 イースター、おめでとうございます。主日を入れないで、40日間の四旬節、受難節が昨日で終わり、喜びの復活祭の朝を迎えました。長かった寒さもようやく和らいで、本日は復活祭を祝うにふさわしい天候でもあります。今朝、私たちに与えられました福音は、ヨハネ福音書20章の1節から18節までであります。これは、前半の20章1節から10節までと、後半の11節から18節の二つの出来事に分けられます。本日、復活祭の日に起こったこれらの出来事の意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、最初の出来事について、思いをめぐらしてみましょう。安息日どもからの第一日目、すなわち、週の初めの日、日曜日の朝ごく早く、まだ暗闇のときに、マグダラのマリアは、墓に行きます。ところが、岩の墓の入り口をふさいでいた大きな石は、既に取り除かれているのを見るのであります。マリアは、大急ぎでかけだし、そして、ペトロと主の愛した弟子のところに向かって行き、言うのであります。「彼らが主を取り去りました。わたしたちは、主がどこに置かれたのか分かりません。」ペトロと、主が愛されたそのもう一人の弟子は、隠れ家から出て行き、墓へ向かってやって来つつありました。二人は、同時に走り出したのですが、もうひとりの弟子のほうが、追い抜いて、先に墓に着きます。しかし、彼は中をかがんで、のぞいて見ただけでした。やがて、着いたペトロは、中に入り、遺体をくるんでいた亜麻布がおいてあるのと、顔の覆いが離れたところにたたんであるのを見ます。やがて、もう一人の弟子も、「入ってきて、見ました、そして、この弟子は信じた」のであります。すなわち、この弟子はこのとき、主が復活なさったことを、洞察してさとったのであります。聖書は、しかし、「なぜならば、主が必ず死人の中から、復活することになっているとの聖書の言葉を彼らはまだ知らなかったからである」と少し矛盾した言葉を記しています。そして、彼らは、再び仲間たちのところへと帰って行ったのであります。
 さて、後半は、マリアが、二人のあとを追ってやって来ていたものか、墓に来ていて、泣きながら、中をふと屈んで覗き込みました。彼女は自分の先生の遺体を人々が取り去ったと思い込み、しかしなんとか、取り戻して丁重に香油をぬったりして葬ってあげたいと思って泣いていたのであります。ところが、中を覗き込むと、その墓の中に、足もとと顔の部分に位置していたとと思われる場所に、天使がふたり、白くまばゆい衣を着て座っているのを見るのです。彼らは言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか?」マリアは、「人々が私の主を取り去りました。そしてどこにおいたのか、私にはわかりません。」と答えます。そして、今度は後ろを振り向くと、そこにイエスが見えましたが、マリアには、イエスであることがわかりませんでした。そして、彼女は園の園丁だと思っていると、イエスはいわれます。「なぜ泣いているのか?誰を探しているのか?」
彼女は言いました。「ご主人、あなたが、ここに納められた主を運んだのなら、私に教えてください。わたしが、納めますから。」すると、主は言われました。「マリアよ。」これは、もとの文では、マリアムという言葉で記されています。そして、そのとき、マリアは気づいて、「ラボニ」すなわち「先生」とヘブライ語で語ります。マリアは、主にすがりつこうとしたのでしょう。主は言われます。「私に触れるのはよしなさい。私はまだ父のもとに上ってはいないのだから。私の兄弟たちのところに行って告げなさい。私は、私の父であなたがたの父でもある方、わたしの神であなたがたの神でもある方のもとへと上っていくと。」マグダラのマリアは出て行って、「私は主を見ました」と言い、先ほどのそれらの言葉を彼が彼女に語ったことを伝えたというのであります。
 どうして、主は、マリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい。わたしは、まだ、父のもとに上ってはいないのだから」と言ったのでしょうか。それは、主は、まだ、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神、またあなたがたの神のもとに上る」という大事な務めを終えてはいないからとも考えられます。主は、弟子たちと別れるにあたっての告別説教の箇所で、「私を信じなさい、そしてまた、わたしの父を信じなさい。私は、あなたがたのために住む場所を用意しに行く」と言われました。その働きを、主はなさらなければならないので、その復活したからだに、触れることはよしなさいと、言われたのでありましょう。ヨハネ福音書の記者にとって、受難も十字架も、主のご復活も、そして、天にあげられ、父のもとから来た者として父のもとに帰ることも、栄光でありました。それらは、ばらばらに分けられるものではなく、密接不可分なことでありました。
 復活の出来事は、福音書記者ヨハネにとっては、天の父のもとから遣わされること、十字架の死、十字架にあげられること、そして、三日目のご復活、そして、天の父のもとにあげられることと、切り離すことのできない大事な、一体のこととして考えられるべきことであります。
 ペトロは、墓の中に入り、亜麻布が置かれているのと、顔の覆いがたたんであるのを、つぶさにみてとりました。そして、もう一人の主が愛した弟子は、あとから入って、その意味を洞察して理解することができました、そして、主の復活を信じたのであります。
 私たちにとって、理想的な弟子のありようが、この「主の愛された弟子」によって表現されています。主イエスのご復活は、主を信じる弟子たちにだけ与えられたのであり、彼らだけが理解できたのであり、主は、その残された弟子たちのもとにだけ復活の姿を現されたのであります。
 そして、主のご復活の意味は、主が私たちのために、父のもとに行き、住む場所を用意してくださることであります。そしてそれはまた、私たちが、主イエスを信じ、私たちの神を信じるようになるためであります。そのために、「父のもとに上っていくことを、わたしの兄弟たちに知らせるように」と主は言われたのであります。
 このときの出来事から2000年近くたった今も、私たちは本日のみ言葉を通してご復活の主にまみえることがゆるされています。そのことを思い起こしつつ、復活祭を共々に祝いたいと思います。
 父なる神さま。あなたは、弱い私たちを憐れみ、み子を地上の私たちのもとにお遣わしになり、受難と十字架の死と復活、そして、天にあげられ、あなたのもとに、み子が帰られることを通して、私たちの罪を赦し、救いを完成してくださいました。そして、わたしたちが、いかなる困難や障害にもひるむことなく、生きる力を与えてくださいました。この復活の主と今もなお、聖書を通して、あいまみえることができますことを感謝します。どうぞ、あなたがこれからも私たちの生涯を最後まで導いてください。キリストのみ名によって。アーメン。
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2005/03/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「靴の祈り」(マタイ21:1-11)
マタイ21:1-11、2005・03・20、枝の主日
ゼカリヤ書9:9-10、フィリピの信徒への手紙2:6-11

マタイによる福音書
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子に使いを出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


説教「靴の祈り」(マタイ21:1~11)渡辺純幸主任牧師
 八木重吉の詩に「基督が解決しておいてくれたのです/ ただ彼の中へはいればいい/彼につられてゆけばよい」というのがあります。八木の闘病をとおして神への揺るぎない信頼を詩っています。本日の聖書は、イエスがエルサレムに入場される場面です。八木の詩のように、イエスがすべてを解決されるために入場されるのでしょう。
 イエスとその一行がエルサレムの目と鼻の先ベトファゲに来たとき、弟子二人に、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われました。
 そこで弟子たちは行って、ろばと子ろばをイエスのところに引いて来てました。そのろばに乗ったイエスを、群衆は王を迎えるように、おのおの服や木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主のみ名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と口々に叫びながら、イエスの後に従ってエルサレムに入場したのでした。これは、ゼカリア書9章9節の「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ。歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」という旧約の預言の実現でした。
 ただろばに乗って入場する姿は人々の期待していた王様とは少々異なっていました。ろばは、英語でドンキー、あるいはアスと言いますが、それは、「ばか」とか「強情」の意味を持っています。またエレミヤ書にも、「ろばがうめられるように、彼は葬られた」とあり、あまり良い使われ方はしておりません。
 これは、馬と比較してのことなのかも知れません。馬と比べて戦争に役に立たないという姿でありましょう。私たちは、もしイエスが王であるのなら、王らしく、馬に乗り凱旋するごとく、それ相応の姿でエルサレム入場というようにすればよいと思うのです。
 しかし、戦闘に対する馬でなくろばでした。
ご一緒にイエスのエルサレム入場の意味を考えてみましょう。
 アメリカ先住民スー族の祈りに、「大いなる霊よ、私が隣人の靴で1マイル歩かないうちは、その者を批判する事がないように導きたまえ」というのがあるそうです。この祈りを基に「靴の祈り」というのがあります。これは「靴のミサ」と呼ばれるカトリックの黙想会で行われているもので、隣の人と右足の靴を交換します。他人の靴を履くということは、自分を傷つけた人の中へ熱意をもって入るということの象徴です。
 そして、この祈りを体現した人にギリオンという方がいます。1944年に、アドルフ・ヒトラーの兵士がギリオンの家族全員を殺害しました。彼は復讐に燃え、ヒトラーの暗殺計画に三度も関与し、35年以上経っても、ギリオンは復讐に燃えていました。
 そんな彼は、ある時「靴のミサ」に参加し、隣の人と右靴を交換しました。その靴があのヒトラーの履いていたのに似ていたので驚きました。
 参加者たちは、各自が今交換した人の靴で歩きながら、その人の立場になってみるように促されました。ギリオンはヒトラー風のブーツで歩きながら、締め付けられるような窮屈さを感じ、どこかヒトラーの硬直した世界が見えてきました。
 ギリオンは憐れみを感じました。そのうち彼はヒトラーをどうしても許せない以外はすべて理解できる気になってきました。ところが、この許すことのできない心はどこかで見たような気がしました。それは35年間、ヒトラーを許すことのできなかった自分の心によく似ていることに気づきました。
 ギリオンは更に祈り続けました。そして左の自分の靴で歩くとき、許すことのできない心をもつ自分をそのまま愛してくださる神さまに気づきました。人は与えられたものしか与えることができないので、彼はまず自分の靴で歩き、自分が必要とする愛を受けることにしました。
 必要なだけの愛情を十分得たなら、交換した靴で歩く力が自然と湧いて、その靴の持ち主に対して、いま自分が得た愛情を注ぐ事ができます。ミサの終わる頃には、ギリオンは自分の靴で十分に歩き、自分の頑なな心を癒す神の愛を存分に受けて、その癒しの愛をヒトラーにまで捧げられるほどになりました。このギリオンがした「靴の祈り」で誰かのために祈ることは、それはキリストのとりなしにも似ています。イエスはいつも私たちの靴で、私たちの立場になって歩んで下さっていることに気づきます。そして、その許しでもって私たちも人を許すことができるようになるのです。
 さて、イエスはエルサレムに近づいて、子ろばに乗って入場されました。聖書の流れに従ってまいりますと、次に待つのは十字架の死です。それを知りつつ、敢えてイエスはエルサレムに入場されたのです。ローマの圧制のもとに苦しみ、解放の日を待っていた群衆には、イエスがろばに乗って入場されるのも、王が馬に乗って入場している姿として見えたに違いありません。ただここで、私たちはこの一連の出来事を通して、イエスの入場が、あくまで一般のユダヤ人が期待する王とは異なるものであったということを心しておかねばならないようです。
 イエスのエルサレム入場は、イエスがろばと子ろばを引いてくるようにと言われたことを思い起こしても、預言されたとおりの姿で、一つひとつが神のご計画という必然性をもってなされていたということです。
 戦いに用いる馬でなく、平和のしるしのろばに乗って入場するという姿の中にメシアとしての役割があるのです。そこには、強い王ではなく、苦悩に満ちた、受難の王の姿があるのです。
 ろばに乗ったイエスは、エルサレム入場に際して、『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』と大勢の群衆の歓呼でもって迎えられました。しかし、どうでしょう。イエスがエルサレムに入られると、「都中の者が『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ」とあります。どうしたことか、エルサレムの人々はあまりイエスを歓迎している様子ではありません。どうもエルサレムの高い城壁の内と外では大きな違いがあるようです。つまり、エルサレムの壁の中の信仰と壁の外の信仰とでもいうべきものがあるということです。
 イエスが今まで宣べ伝えたのは、この壁の外の人々とでも言えましょう。ガリラヤ湖畔のカファルナウムが中心でした。決してエルサレムではありませんでした。エルサレムという都に対してどちらかというと、名もない田舎で、しるしや癒し、奇跡をなして多くの人々と拘わりました。罪人と呼ばれた人々に声をかけ、彼らのそばにいて魂を生き返らせました。それは、あるがままの姿で、柔和で優しい姿でありました。
 けれどもそこに待ち受けるのは壁の内の疑い深い不信仰に満ちた人々であり、十字架の道でした。残念なことにこのイエスの入場なしには、私たちの救いはなかったのです。
 それは、靴の祈りにもありましたように、相手の靴の苦悩を自分のものとして受け入れる姿そのものです。イエスは私たち一人ひとりの苦しみや悲しみ、そして痛みをもって履いている靴を自分の靴として履いてくださるのです。
 エルサレムはその象徴であり、ろばに乗っての入場は、私たちの置かれている状況とその救いを明確に指し示して下さった姿でありましょう。
 自分を迎え入れてくれるのでなく、敵意と悪意にみちた場所に向かって入場されるイエスにとって、イエスの誕生のときからエルサレムの町は人々の救いを意味するもの以外の何ものでもありませんでした。
 素直に、「ダビデの子にホサナ」と言えたのは遠い昔のことで、今はエルサレムという城壁の中で、あんのんと、どうも、今やエルサレムは平和の基ではなくなってしまった姿が浮かんで来ます。しかしイエスは、この城壁を通り抜けて入場されたのです。
 これは、この神の都が真の平和の都として、平和の場所として回復されるためであると同時に、それはまさに、私たちの頑なな心の壁をも取り去って下さる救いのための入場なのです。
 イエスの十字架という代償なしには、その平和も素直な心も救いもありません。イエスのエルサレム入場は、イエスの誕生と同じ意味であり、私たちの救いの確かさでもあるのです。あの八木重吉の「基督が解決しておいてくれたのです/ ただ彼の中へはいればいい/
彼につられてゆけばいい」を思い起こし、今日、イエスは私たちのためにエルサレムに入場されました。私たちもイエスと共に、彼に従って、救いの門、エルサレムへ入場しようではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 

2005/03/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「死の克服」(ヨハネ11:17~53)
ヨハネ11:17-53、2005・03・13、四旬節第5主日(紫)
エゼキエル書33:10-16、ローマの信徒への手紙5:1-5

ヨハネ福音書11章17節~53節
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。


説教「死の克服」(ヨハネ11:17-53)
 いよいよ、四旬節も深まり、主イエスの十字架の道行きをおぼえる期間もあと、2週間となりました。ここのところ、この受難節に、ヨハネ福音書の箇所が3回に渡って、与えられています。本日は、ヨハネ1:17-53から、この部分が四旬節に与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、私は、本日の説教題を「死の克服」というふうにつけておいたのですが、これはむしろ、「罪と死の克服」というふうに付けるべきではなかったかと今では思っています。
 それと言いますのも、わたしたちの罪に陥っている状態は、まさに死であるからであります。確かに私たちの人生の終わりには、すべての人に肉体的な死ということが待っています。しかし、それと共に、いや、それ以上に私たちが克服しなければならない問題は、罪の問題であります。私たちは罪に生きている時、実は死んでいるのと同じだからであります。さて、本日の福音書の部分は非常に長いのですが、私はあえて、与えられているとおりのペリコペーを、週報にも載せまして、考えることにしました。ここの箇所は、まさしく主イエスの十字架にもつながっていく出来事だからであります。
 さて、主イエスがベタニアの近くに着きましたとき、既に、ラザロが死んでから四日がたっていました。四日もたてば、もう生き返る希望は絶たれていると考えられるのであります。さて、そこに主イエスがお出でになったとの知らせが行ったのでしょう。マルタはそれを聞くと急いで、主イエスのところに来て言いました。もし、あなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は、死ななかったでしょうに、と。盲人の目をさえも開け、数々の病人をいやしてきた主イエスがここにいてくださったなら、弟は死なないですんだでしょうに。そう言うのであります。しかし、マルタはそれに続けて、しかし、今でもあなたが神にお願いすることなら何でも神は答えてくださると信じています。そう言いますと、主は言われます。「ラザロは復活する」と。これは、起き上がるという言葉であります。わたしたちがもう死ぬことはないという意味での復活と同じ意味ではないような気がします。しかし、四日もたっているのですから、単なる生き返りとは思えません。
 マルタは、当時のユダヤ人たちが信じていた終末の教えを取り出してきて答えます。「終わりの日の復活において、彼も復活するであろうことは存じています。」主は言われます。「わたしは復活であり、命である。私を信じる者はたとえ死んでも生きる。わたしへと生き、信じるものは永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言うのであります。マルタは、「はい、信じました、あなたが、メシア、神の子、この世界へおいでになられている方であることを」と答えます。さて、作家であり牧師でもある佐古純一郎氏は、日本が敗戦し、自分自身まったくの虚無感にとらわれていました時、たまたま持参してきていた新約聖書を取り出して、がむしゃらに読んだそうです。そして本日のこの箇所に来て、この不思議なマルタという女性の信仰は何なのかと、突き動かされて、この女性の生き方に自分も賭けてみようとついに洗礼を受け、浄土真宗の寺の出であったにもかかわらず、牧師にまでなったことをうかがったことがあります。佐古先生は、死んでも生きることができるという信仰が与えられたのであります。わたしたちも、多くの誘惑や試練や困難に出会って、つぶれそうになることがしばしばあります。けれども、このマリアではなく、主イエスと対話を交し合うマルタの積極的で確固とした信仰に学びたいものであります。
 主は、「メシアであり、神の子であり、そしてこの世界へとおいでになられた方」であります。主イエスと共に既に救いの時代は始まっているのであります。さて、マルタは、家に帰り、マリアにひそかに告げて「先生が、お出でになっています」と言いますと、マリアは座っていましたが急に立ち上がり、急いで、マルタが主イエスと会った場所まで行きました。大勢のマリアを慰めに来ていたユダヤ人たちは、それを見て、マリアは墓に泣きに行ったのだろうと後を追います。マリアは、主の足もとにひれ伏し、言います。「あなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」主イエスは、「どこに彼を葬ったのか」と言うと、ユダヤ人たちは、「来て見てください」と墓場に案内します。マリアもユダヤ人たちも泣いているのを御覧になって、主は心に憤りを覚え、心を動かされます。そして、墓に向かう時、主は涙を流されました。ユダヤ人たちは、それを見て、「なんとイエスは、ラザロを愛していたことか」、あるいは、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言います。主は再び、憤りを覚え、洞穴の石を開けるように言われます。マルタがもう四日もたっていますからにおいますと言うと、主は、「あなたは神を信じるならば、神の栄光を見る」と言っておいたではないかと言われます。
 この「主が憤おりになられた」というのは、主イエスを理解しないユダヤ人たちの不信仰に対してであったでありましょう。主は神に目を上げ感謝して言われます。「あなたはわたしに何でも聞いてくださることを感謝します。しかし、私がこう言うのは、自分のためではなく、周りにいる人々がそれを見て信じるようになるためです」と、言われました。そしてそれは、今この聖書を聞かされている私たちも信じるようになるためであります。
人々が石を持ち上げると、主は大声で言われました。「ラザロよ、出て来なさい」。すると、死人は、手足を布で巻かれたまま、顔にも覆いをして出て来ました。「彼をといてやり、いかせなさい」と主はお命じになりました。そしてこのことがあって、多くのこれを見た人は信じたのでありますが、中には、エルサレムに行ってこのしるしの出来事を伝える者もいました。そのとき、祭司長たちファリサイ派の者たちは、どうしたらいいものか途方にくれました。すると、その年の大祭司カイアファが立って言ったのであります。「一人の人がこの国民とこの聖なる場所を奪われないために死ぬほうが益であることがわからないのか。」それは、彼自身から言ったのではなく、その年の大祭司として、預言して言ったのだとヨハネ福音書記者は記し、この言葉によって、主イエスを殺すように彼らは決定したというのであります。わたしたちは、ラザロのこの復活の奇跡によって、主が十字架につくきっかけとなったことを知るのであります。私たちの罪のために、またその帰結である死の克服のために主は、本日の奇跡を行われました。しかしこのラザロもまた、地上の生活を終え、やがてはわたしたちと同じように再び死んだことでありましょう。しかし、私たちはこの出来事を通して、肉体の死を経ても残る復活と命、朽ちることのない命を与えられているのであります。本日の出来事を通して、わたしたちは、わたしたちのためにつけられた主の十字架を見上げ、感謝して地上の限りある命を有意義に過ごしたいものであります。

2005/03/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「救いが見える生活」(ヨハネ9:13~25)
ヨハネ9:13-25、2005年3月6日、四旬節第4主日(紫)
イザヤ書42章14節~21節、エフェソの信徒への手紙5章8節~14節

ヨハネ福音書9章13節~25節
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人人のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったいお前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの人が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」


「救いが見える生活」(ヨハネ9:13-25)
本日は四旬節第4主日であります。主の十字架への道行きをおぼえる受難節も深まってきました。次週とその次の枝の主日でもって、四旬節の6回の主の日は終わりまして、受難週を過ごして後、いよいよ今年は3月27日が復活祭であります。本日の箇所は、ヨハネ福音書9章13節から25節までであります。ここの箇所がどうして、四旬節の中の本日であります第4主日に与えられているのでありましょうか。それは、この四旬節が復活祭に洗礼を受ける準備期間でもありますことと関係しているようであります。四旬節の洗礼を受ける準備をしている人が、本日の箇所を洗礼準備のテキストとして、古くから読まれてきたいきさつがあるのであります。本日出て来ました盲人として生まれた人が、主イエスに出会っていやされ、見えるようにされることは、わたしたちが、洗礼を受けることと重ね合わせて考えることができるのであります。私たちが受けました洗礼を思い起こしながら、ご一緒に本日の聖書に耳を傾けてみたいと思います。さて、本日の箇所は9章の13節から25節まででありますが、むしろ、9章全体のストーリーから考えるのがよいと思います。一人の盲人が癒される一方、ファリサイ派の者たちは、イエスに自分たちは見えるものであると言い張ることによって、精神的に霊的に見えなくされるのであります。その9章の全体の流れから、本日の物語の意味をつかみとりたいのであります。この盲目であって、道端で物乞いをしていた男の人は、まず人々によって、今まで盲目であって、人々の目に留まっていた人物と同一人物であることが確かめられます。そこでも、この人は、主イエスがなさってくださった単純なふるまい、奇跡の出来事を、その通り、そのまま人々に告げています。そして今度は、人々によって、ユダヤ人たちのリーダーであったファリサイ派の者たちのところに、連れてこられます。ファリサイ派の者たちは、この人に同じように聞きます。「あなたはどうして見えるようになったのか」この男の人は再び言います。「あの方、イエスと言う人が来て、泥を作り、それを目の上にぬり、わたしは(シロアムの池に行って)洗いました、そして今見えているのです。」ヨハネ福音書のこの箇所の奇跡は、他のこの福音書で出てきます奇跡と同じように非常に単純で簡潔であります。奇跡はあくまでも信仰に至らせるための手段に過ぎないのであります。すなわち、主イエスはただ、泥をこねて、この人の目に塗り、この人が顔を洗うと見えるようになったという単純な出来事として、記されているに過ぎません。ファリサイ派のある者たちは、これは、5章で出てきますベトサダの池の病人をイエスが直されたのと同様にそれが安息日の出来事であったので、それに違反するイエスは、神からの者ではないと言い、また別の者たちは、このようなしるしどもを行う人が罪ある人である者ではありえないと反論します。そして、彼らの間で意見が分かれたと記されています。それは、「彼らにおいて対立があった」という強い表現であります。ファリサイ派の者たちは、彼に、「あなたは盲人で生まれたのに、なぜ、今見えるのか。あなたの目を開けてくれたものを、何だとあなたは言うのか?」と聞きますと、彼は「あの人は預言者です」と勇敢にも言い表したのであります。彼らはそれでも信じることが出来ず、仕方なく、その次にはその盲人であった人の両親を呼び出して聞きます。「この者は、あなたがたの息子で、盲人に生まれついた者か?それならその生まれつきの盲人がどうして今は見えるのか」と。彼らは答えます。「わたしたちは、これが自分たちの息子で、盲人に生まれついたことは知っています。しかし、どうして今見えるようになったのか、また誰が目を開けてくれたのかはわたしどもには分かりません。あれはもう十分な年ですから、直接聞いてください。あれが、自分で話すでしょう」と。それは、もしも、イエスがメシアであると告白するものがいれば、その者は会堂追放されたものになるとユダヤ人たちで決定していたからであるとヨハネ福音書記者は記しています。ヨハネ福音書が書かれたのは、紀元後90年ころであったと考えられます。ユダヤ人たちからの迫害が高まっていた、そういう中でこの記事も書かれたのであります。信仰を表明して、困難と窮境のなかでキリストへの信仰に生きるのか、それとも、従来どおりのユダヤ人社会の中にとどまるのかが、その当時のユダヤ人からキリスト教徒になった人々の大きな戦いでありました。しかし、この両親は、自分たちがユダヤ人たちから会堂追放され、破門され、また、その共同体からも排除されることを恐れ、主について告白することを回避したのであります。「彼はもう大人ですから彼にお聞きください。彼が自分で話すでしょう」と。それで、仕方なく、もう一度、ユダヤ人たちは、その生まれつき盲人であった人を呼び出して言います。「正直に言いなさい。」これは神に栄光を与えなさいと、文字通りには訳せる言い方です。「わたしたちはあの者が罪あるものだと知っているのだ。」盲人であった人は答えます。「あの人が罪ある人であるのかどうかわたしは知りません。ただ一つ知っていることは、以前は見えなかったわたしが今は見えるということです。」主イエスは、安息日にもかかわらず、また、どういう日であろうと、どのような切迫した中に置かれていようと、救いを必要としている人に救いを与え、病んでいる人に癒しを与えられました。彼は、この出来事の場面においても既に、命をねらわれている存在でした。(8章59節参照)主イエスは、「昼は12時間ある。夜がくれば、働けなくなる。」あるいは、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方のわざを、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(9:4-5)そう言われて、十字架の死に至るまで、福音を伝え、また救いの働きを続けられたのであります。わたしたちは、本日のこの盲人であった人の中に、わたしたちクリスチャンの模範である姿を見出すことができます。この人は、このあと激しく論争した後、追い出され、再び主イエスにまみえます。「人の子をあなたは信じるか」と、主イエスにたずねられると、「主よ、その人を信じたいのです」と答えて、救いに入られました。今、四旬節で主の十字架を覚え、洗礼を準備し、また、それを思い起こす時であります。わたしたちも今、世の光であるキリストに出会っている者であります。この盲人であった人が、迫害や圧迫にもかかわらず、主をメシアと言い表したように、わたしたちも、置かれていますそれぞれの生活を通して、主の救いをあおぎみ、また、人々からもわたしたちの生活を通して、キリストが見えると言われるような信仰生活を送っていきたいものでものであります。
人知では測り知ることのできない神の平安があなたがたのうちにありますように!
2005/03/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「仕える喜び」(マタイ20:17~28)
マタイ20:17-28、2005・02・20、四旬節第2主日(紫)
創世記12:1-8、ローマ4:1-12、

マタイ福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上っていく途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

「仕える喜び」(マタイ20:17-28)
本日は四旬節第2主日であります。先週の主日の40日間の誘惑に遭われた主イエスの出来事に続いて、本日はマタイ20:17-28が与えられています。四旬節のこの主の日に、この箇所が与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、今日のこの福音の箇所は、エルサレムが間近に迫ってきている中での出来事であります。主は、本日の部分に入る前では、労働者が最後に、一時間だけ働いたものにも、朝から働いたものにも、それぞれ1デナリオンずつ与えたというある主人の譬え話が出てきます。そして主イエスは、「先の者が後になり、後の者が先になるであろう」という、神が人間に与える報いについて語っておられます。
本日の内容もそれに続く、報いの問題であるというふうに、考えることができるのではないでしょうか。そして、そこから主イエスが十字架におつきになることが、私たちにとって何を意味するのかを教えている内容ではないかと思います。
さて、本日の内容は、二つに分けられます。最初に、20:17-19が三度目の受難予告、そして、それに続く出来事と主の語られた教えである20:20-28までです。
主イエスはエルサレムへ上っていく時、12弟子たちだけを、「道において、呼び寄せて」言われました。「見よ、私たちはエルサレムへと上っている。そして人の子は、祭司長たちや律法学者たちに渡される、そして彼らは彼を死へと判決をくだすであろう。そして彼らは彼を異邦人たちに引渡すであろう、そして、彼らは侮辱し、鞭打ち、十字架に付けるであろう。そして三日目に彼は起き上がる、復活するであろう」と。どのような受難に遭うのか、この最後の予告では、以前のものよりもさらに明らかになっています。「異邦人の手にわたされ、十字架刑によって命を奪われ、しかし、三日目に復活する」と、弟子たちに前もって予告されたのであります。そして、以前の予告した場合のときのペトロと同じように、ここでも主イエスの受難の意味を弟子たちは理解せず、それとはまるで正反対な出来事が起こるのであります。
すなわち、その時、ゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネの母が、彼らを連れて、主イエスのもとにやって来た後、ひざまずいて、こう何かを要求しながら語るのであります。「あなたのみ国において、わたしのこの二人の息子を一人はあなたの右に、もう一人は、あなたの左に座るようになるといってください。」主はお答えになっていわれます。「あなたがたは、何を望んでいるのかわかっていない。あなたがたは、私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」彼ら二人は、「わたしたちはできます」と答えます。これは、少し前のところで、「あなたがたは、私に従ってきたのだから、終わりのとき、イスラエルの12部族を治めることになる」と約束されたことに促されてのことであったでしょう。主は言われます。「あなたがたは、確かにわたしが飲む杯を飲むことになる。しかし、私の右、左に座ることは、私が与えることではなく、私の父によって用意されているものたちに与えられるのだ」と。み国でどのような報いに与かるかは、主イエスご自身もご存知ではなく、父なる神さまによってのみ備えられることになっていると、言われるのであります。
それに続いて、主は言われます。「異邦人たちの間では、支配者たちが彼らを支配し、大きい者たち、偉い者たちが彼らに権力をふるっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない、むしろ、あなたがたにおいては、大きくなりたい者は、あなたがたの奉仕者、ディアコノスになり、一番になりたい者は、あなたがたのしもべ、すなわち奴隷となりなさい」、と言われるのであります。教会にあっては、異邦人たちにおけるような権力を誇示して、人を支配したり、自分の思いのままに仕えさせるようなことがあってはならないのであります。奉仕する者、ディオコノスという言葉は、当時卑しく見下げられた存在を表す言葉でありましたが、主イエスは、教会において、大きい者、先である者になるとは、謙遜な、当時の人々からは嫌がられるような者になることだと、当時の人々の考えを打ち破り、それに新たな意味を与えられたのであります。
そして主は、マタイ20章28節で、最後にこう言われます。「それはちょうど、人の子が仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであり、また、多くの人のために身代金として自分の命を与えるために来たのと同様である」、と。
ゼベダイの子らの母は、ちょうど、カナンの女が、自分の子どものためにひれ伏し懇願したのと似ていますし、旧約では、バテシバが、息子ソロモンのために王となれるよう、死の床にあるダビデに懇願した記事を思い起こさせます。
また、「二人を、主イエスの右と左に座るようになると言ってください」といったゼベダイの子らの母親の願いは、その後、主イエスの十字架の両脇に強盗たちの十字架が並んでいだことを思い起こさせます。また、本日の箇所に続く記事は、二人の盲人の目が開かれるという出来事であり、本日のヤコブとヨハネの二人に対応して書かれていることが、思い起こされるのであります。
10人の弟子たちは、ふたりのことで、怒りましたが、主イエスの求められる弟子たちとは、ご自分について来る、ご自分と同じような道を喜んで歩むものたちであります。
それは、イザヤ書53章に書かれているような苦難のしもべの道であります。弟子たちがそれぞれ、どのような報いに与かるのかは、主イエスご自身もお分かりではありませんでした。確かに、ゼベダイの子のうち、ヤコブは、早々と殉教の最期を遂げたことが使徒言行録5章に記されています。ヨハネのほうはどうなったか、その最期はつまびらかではありません。けれども、彼もまた、苦難・苦しみという苦い杯を飲み干したことは、確かであります。主イエスは、すべての人の身代金として、わたしたちの罪を贖い、そこから解放するためにご自分の命をわたしたちのために、与えてくださいました。そしてわたしたちも、主イエスに従って、仕えられるためではなく、仕えるために、キリストによって弟子とされている一人一人であります。そして、主はどのような報いがわたしたちに定められているかは、ご存知ではありませんでしたが、主に従う道を歩んでいく時、父によってすばらしい報いが与えられることを、今も保証していてくださいます。それに信頼して、家族に、隣人に、仕えていく道を喜びとして歩みたいものであります。
天の父なる神さま。私たちは、自分のほうが仕えられることを好む者でございます。けれどもあなたは、仕える道にこそ喜びがあると約束してくださいました。わたしども一人一人が、仕えあい、相手の向上と成長のために、助力を惜しまない奉仕者・ディアコノスとならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。




2005/03/04(金) 16:55:58| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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