津田沼教会 牧師のメッセージ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
「渇きをいやす希望」(ヨハネ4:5~26)
ヨハネ4:5-26、2005年2月27日、四旬節第3主日(紫)
出エジプト記17:1-7、ローマの信徒への手紙4:17b-25

ヨハネ福音書4章5節~26
それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

「渇きをいやす希望」ヨハネ福音書4:5-26
 本日は、四旬節第3主日であります。わたしたちは、この時期、主の十字架への道行きを覚えて過ごすのでありますが、本日と次の主日はヨハネ福音書から福音が与えられています。四旬節は、主日をのぞく40日間であり、本日、そして次週の主日の福音は、直接には、主の十字架という出来事を考えておらず、福音の喜びを、受難節においても、祝うということでありましょうか。しかし、本日も出来事も、主の十字架、受難と無関係ではないこととして、読むことができるのではないでしょうか。四旬節の半ばに、本日の箇所が与えられている意味についてしばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 本日の出来事は、シカルというサマリアの領土を主が通っていかねばならないときに、一人のサマリアの女性と出会い、ヤコブの井戸、泉のかたわらで対話をなさった出来事であります。このサマリアを通って、ガリラヤに戻らねばならなかったというのは、この出来事も偶然ではなく、神のご計画のもとに起こらねばならなかったということであります。
 主イエスは、このシカルというヤコブがその子達、ヨセフの子ら、エフライムとマナセに与えた土地の町の近くのヤコブの井戸のもとで、無造作に旅の疲れから腰を下ろして休まれていました。弟子たちは、町に食物の仕入れに出かけていたときのことであります。一人のサマリアの女性が、水をくみにやってきます。このヤコブの井戸というのは、現在も残っています。非常に深い井戸で、バケツに綱をつけてくまねばならないようなものでありました。主イエスも、われわれと同じように暑い日差しの中、くたびれ果てて、座っておられたのであります。その女性が現れたのはちょうど正午ころでありました。この真昼には、ほかの女性たちは、水をくみに来ることは考えられない、それを知った上での行動であったでしょう。ほかの女たちと顔を合わしたくない、そういう事情を抱えたふるまいでありました。イエスは、このサマリアの女の人に、文字通り訳すと、「わたしに飲むことを与えてほしい」と声をかけます。彼女は、答えます。「サマリアの女のわたしに、なぜ、水を飲ませてほしいといわれるのですか。」主はお答えになります。「あなたが、神の賜物を知り、あなたに語っている者がだれであるか、知っていたなら、自分のほうから望んで命の水を求めたことであろうに。」女は言います。「あなたは、わたしたちの先祖やこぶよりも偉いのですか。この井戸は深いし、あなたは、汲むものもお持ちではありません。どうして、この泉から汲み、生きている水を汲んでわたしに与えることができるのですか。」
 主はいわれます。「この泉から飲むものはまた、渇くであろう。しかし、私が与える水を飲むものは、その人のうちで沸きあがる命の水となりそれは永遠の命に至らしめるであろう。」女は言います。「主よ、その水をわたしにもください、わたしがここに、またくみにこなくてすむように。」
 この女性は、静まることのない罪からくる渇きに苦しんでいたのでありましょう。わたしたちもそれは同じであります。主イエスによって与えられるかわくことのない命の水をわたしたちも必要としています。主は、そのとき、こういわれました。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」主は、この女の人がどのような人生の物語を歩んできていた人なのか、すべてを知っておられたのであります。この人は答えました。「わたしには夫はいません。」
主はいわれます。「あなたは確かに正直に答えた。あなたには5人の夫がいたが、今一緒にいる男はあなたの夫ではない。」女は言いました。「主よ、あなたは、預言者だとわたしは見ました。」それから、続けて、いいます。「わたしたちは、この山、ゲリジム山で礼拝をしていますが、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべき場所はエルサレムだといっています。」
 主は答えられました、「あなたがたは、知らないものを礼拝しているが、私たちは、知っているものを礼拝している、救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、エルサレムでもこの山でもなく、霊と真理において、父を礼拝する時が来る。いやもうその時が来ている。父も、そのような真理をもって礼拝する者を求めておられるからだ」とお答えになりました。
それに対して、サマリアの女は、「わたしは知っています、キリストと呼ばれるメシアがおいでになるとき、すべてのことを教えてくれるでしょう。」すると、主イエスは「わたしである、あなたに今語っているところのものがそれである」と語られたのであります。
 主イエスは、本日のサマリアの女との出会いを通して、ご自分が来たるべきメシアであることを、対立していたこのサマリア人の女性に、ご自分の民、ユダヤ人よりも先に、はっきりと啓示なされたのであります。そして、この女性は、このあと、町に行って、同国人たちを連れてきて、彼らも自分の目で確かめて、世の救い主であることを自ら信じると告白するに至ったのであります。わたしたちの罪は、このお方を通して以外には、赦されることがなく、わたしたちのその渇きは、この方からいただく命の水を通してしか、静まることはないのであります。この福音は、異邦人やユダヤ人には愚かなものでありましょう。しかし、私たちには、神の力であり、救いであります。
 本日のサマリアの女の人は、鎮めることのできない霊的な渇きをずっとおぼえていました。そして、神のご計画によって、主イエスに出会い、その渇きをいやすことができたのであります。そして、この主は、やがて、十字架に向かわれ、わたしたちの罪のために死んで葬られ、三日目にご復活させられたのであります。私たちは、生きている限り、人間的弱さや、自分の罪に苦しむものであります。しかし、本日の出来事を通して、私たちは、霊と真理において父を礼拝することができる群れに入れられているのであります。決して絶望することなく、主イエスの十字架とご復活を見上げながら、霊である神、父を礼拝しつつ歩んで生きたいものであります。
一言お祈りします。
天の父なる神さま。わたしたちは、自分の力によってはいやすことのできない渇きをおぼえます。それは、人間的な努力によっては決して解決することのできないものです。しかし、み子がおいでになり、わたしを信じるものは、命の水が溢れ、それは永遠の命に至らしめる、と約束してくださいました。どうぞ、あなたのみ言葉によってわたしたちを清め、わたしたちの渇きをいやしてください。そしてそこから来る喜びを、本日のサマリアの女性のように、隣人にも伝えるものとならせてください。キリストによって祈ります。
スポンサーサイト
2005/02/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「仕える喜び」(マタイ20:17~28)
マタイ20:17-28、2005・02・20、四旬節第2主日(紫)
創世記12:1-8、ローマ4:1-12、

マタイ福音書20:17-28
 イエスはエルサレムへ上っていく途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

「仕える喜び」(マタイ20:17-28)
本日は四旬節第2主日であります。先週の主日の40日間の誘惑に遭われた主イエスの出来事に続いて、本日はマタイ20:17-28が与えられています。四旬節のこの主の日に、この箇所が与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、今日のこの福音の箇所は、エルサレムが間近に迫ってきている中での出来事であります。主は、本日の部分に入る前では、労働者が最後に、一時間だけ働いたものにも、朝から働いたものにも、それぞれ1デナリオンずつ与えたというある主人の譬え話が出てきます。そして主イエスは、「先の者が後になり、後の者が先になるであろう」という、神が人間に与える報いについて語っておられます。
本日の内容もそれに続く、報いの問題であるというふうに、考えることができるのではないでしょうか。そして、そこから主イエスが十字架におつきになることが、私たちにとって何を意味するのかを教えている内容ではないかと思います。
さて、本日の内容は、二つに分けられます。最初に、20:17-19が三度目の受難予告、そして、それに続く出来事と主の語られた教えである20:20-28までです。
主イエスはエルサレムへ上っていく時、12弟子たちだけを、「道において、呼び寄せて」言われました。「見よ、私たちはエルサレムへと上っている。そして人の子は、祭司長たちや律法学者たちに渡される、そして彼らは彼を死へと判決をくだすであろう。そして彼らは彼を異邦人たちに引渡すであろう、そして、彼らは侮辱し、鞭打ち、十字架に付けるであろう。そして三日目に彼は起き上がる、復活するであろう」と。どのような受難に遭うのか、この最後の予告では、以前のものよりもさらに明らかになっています。「異邦人の手にわたされ、十字架刑によって命を奪われ、しかし、三日目に復活する」と、弟子たちに前もって予告されたのであります。そして、以前の予告した場合のときのペトロと同じように、ここでも主イエスの受難の意味を弟子たちは理解せず、それとはまるで正反対な出来事が起こるのであります。
すなわち、その時、ゼベダイの子ら、ヤコブとヨハネの母が、彼らを連れて、主イエスのもとにやって来た後、ひざまずいて、こう何かを要求しながら語るのであります。「あなたのみ国において、わたしのこの二人の息子を一人はあなたの右に、もう一人は、あなたの左に座るようになるといってください。」主はお答えになっていわれます。「あなたがたは、何を望んでいるのかわかっていない。あなたがたは、私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」彼ら二人は、「わたしたちはできます」と答えます。これは、少し前のところで、「あなたがたは、私に従ってきたのだから、終わりのとき、イスラエルの12部族を治めることになる」と約束されたことに促されてのことであったでしょう。主は言われます。「あなたがたは、確かにわたしが飲む杯を飲むことになる。しかし、私の右、左に座ることは、私が与えることではなく、私の父によって用意されているものたちに与えられるのだ」と。み国でどのような報いに与かるかは、主イエスご自身もご存知ではなく、父なる神さまによってのみ備えられることになっていると、言われるのであります。
それに続いて、主は言われます。「異邦人たちの間では、支配者たちが彼らを支配し、大きい者たち、偉い者たちが彼らに権力をふるっている。しかし、あなたがたの間ではそうであってはならない、むしろ、あなたがたにおいては、大きくなりたい者は、あなたがたの奉仕者、ディアコノスになり、一番になりたい者は、あなたがたのしもべ、すなわち奴隷となりなさい」、と言われるのであります。教会にあっては、異邦人たちにおけるような権力を誇示して、人を支配したり、自分の思いのままに仕えさせるようなことがあってはならないのであります。奉仕する者、ディオコノスという言葉は、当時卑しく見下げられた存在を表す言葉でありましたが、主イエスは、教会において、大きい者、先である者になるとは、謙遜な、当時の人々からは嫌がられるような者になることだと、当時の人々の考えを打ち破り、それに新たな意味を与えられたのであります。
そして主は、マタイ20章28節で、最後にこう言われます。「それはちょうど、人の子が仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのであり、また、多くの人のために身代金として自分の命を与えるために来たのと同様である」、と。
ゼベダイの子らの母は、ちょうど、カナンの女が、自分の子どものためにひれ伏し懇願したのと似ていますし、旧約では、バテシバが、息子ソロモンのために王となれるよう、死の床にあるダビデに懇願した記事を思い起こさせます。
また、「二人を、主イエスの右と左に座るようになると言ってください」といったゼベダイの子らの母親の願いは、その後、主イエスの十字架の両脇に強盗たちの十字架が並んでいだことを思い起こさせます。また、本日の箇所に続く記事は、二人の盲人の目が開かれるという出来事であり、本日のヤコブとヨハネの二人に対応して書かれていることが、思い起こされるのであります。
10人の弟子たちは、ふたりのことで、怒りましたが、主イエスの求められる弟子たちとは、ご自分について来る、ご自分と同じような道を喜んで歩むものたちであります。
それは、イザヤ書53章に書かれているような苦難のしもべの道であります。弟子たちがそれぞれ、どのような報いに与かるのかは、主イエスご自身もお分かりではありませんでした。確かに、ゼベダイの子のうち、ヤコブは、早々と殉教の最期を遂げたことが使徒言行録5章に記されています。ヨハネのほうはどうなったか、その最期はつまびらかではありません。けれども、彼もまた、苦難・苦しみという苦い杯を飲み干したことは、確かであります。主イエスは、すべての人の身代金として、わたしたちの罪を贖い、そこから解放するためにご自分の命をわたしたちのために、与えてくださいました。そしてわたしたちも、主イエスに従って、仕えられるためではなく、仕えるために、キリストによって弟子とされている一人一人であります。そして、主はどのような報いがわたしたちに定められているかは、ご存知ではありませんでしたが、主に従う道を歩んでいく時、父によってすばらしい報いが与えられることを、今も保証していてくださいます。それに信頼して、家族に、隣人に、仕えていく道を喜びとして歩みたいものであります。
天の父なる神さま。私たちは、自分のほうが仕えられることを好む者でございます。けれどもあなたは、仕える道にこそ喜びがあると約束してくださいました。わたしども一人一人が、仕えあい、相手の向上と成長のために、助力を惜しまない奉仕者・ディアコノスとならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。




2005/02/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「十字架の前ぶれ」(マタイ4:1~11)
マタイ4:1-11、2005・02・13、四旬節第1主日(紫)
創世記2:15-17,3:1-7、ローマ3:21-31、

マタイ福音書4章1~11節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
 ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

「十字架の前ぶれ」(マタイ4:1-11)
 いよいよ、本日は四旬節の第一主日であります。聖卓やストールに用いられます色も、主の十字架において流された血を表す紫に変わりました。これは、先週の水曜日、2月9日から、聖灰水曜日となり、日曜日を含めないで40日間の間、私たちは、主の受難をおぼえ、その十字架の道行きをおぼえて、復活際、今年は3月27日でありますが、そのときまでを、慎ましやかに過ごすのであります。昔から、この受難節は、洗礼の準備のときでもあり、あるいは、わたしたちの受けた洗礼を思い起こすときでもありましょう。
 さて、その最初の主の日に、毎年与えられます箇所は、40日間の荒れ野の誘惑、あるいは、試みと言われる箇所であります。今年は、マタイ福音書4章1節から11節が与えられています。しばらく、その意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。
 さて、主は洗礼をお受けになったとき、天が開け、神の霊が鳩のような形でイエスのほうに下ってきて、「これは私の子、愛する者、私の心に適う者」という声がしたのでありますが、「そのとき」すなわちその直後、主イエスは、その同じ“霊”によって導き上げられ、悪魔によって誘惑を受けるために、荒れ野へと招かれたのであります。それはあくまでも、聖霊によって、また、父なる神の導きのもとに起こった出来事であります。父なる神が本日の出来事をお望みになって、悪魔と戦わすために荒れ野に赴かされ、主はそれに身をゆだねられたのであります。 そして、40日40夜、主は断食された後、空腹を覚えられます。40という数は、聖書では非常に重要な数であります。40日40夜という表現は、モーセがシナイ山で神からの教えを受けたときに、パンも水も取らなかったときの表現でありますし、エリヤが、アハブ王の追っ手から逃げ、疲れ果てて寝ていたとき、み使いによってパンと水を与えられ、力づけられてその後、やはりホレブの山、シナイ山まで歩き通した日数であります。あるいは、ノアの時代の洪水のとき、雨が降り続いた期間であったり、そして何よりも出エジプトの民が荒れ野をさまよった40年間が思い起こされます。それは、困難とか苦しみとか、あるいは神の罰を表す時にしばしば用いられる数であります。出エジプトのイスラエルの民は、この期間神の霊によって、しばしば導かれ、神の子とも呼ばれましたが、彼らは、かたくなに神に逆らい、神の言葉と約束に従おうとはせず、それどころか、しばしば、偶像崇拝に陥り、ついにその世代は、モーセを含めて、約束の地、イスラエルには入ることができなかったのであります。そのイスラエルの民とは、神さまからすぐに離れてしまいがちな私たち人間の古い状態をも暗示しているものといえましょう。さて、主イエスは、飢えられました。そのとき、「誘惑する者」がやってきて、主に言います。「あなたが神の子であるならば、これらの石に、パンになるようにと言いなさい。」これは、イスラエルの民が荒れ野で受けた試みを思い起こさせます。彼らは、パンと水に飢えて、モーセに向かってつぶやいたのであります。彼らが受けた試みは、その苦しみと困難を通して、彼らを導き出した主なる神を信頼するようになるためでありました。主は、悪魔の試みに答えていわれました。こう書かれている。「人間は、パンのみによっては生きないであろう、そうではなく、神の口から出てくるあらゆる言葉によって生きるであろう」と。
この言葉は、先ほどの、出エジプトの民、神の子といわれた民が飢えに苦しんだ時に記されたみことばであります。私たちは、生きていく上で、肉体を維持する食物と共に、霊的な食物であるみ言葉なしには、人間らしい確かな生き方をすることはできないのであります。主は後に、山上の説教で、「あなたがたはまず、神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、必要なものはすべて添えて与えられる。だから、明日のことを思い煩うな」、と言われるのであります。主イエスは、申命記の先ほどの言葉を引用して、第一の悪魔の誘惑を退けられたのであります。 次に、悪魔は、主を聖なる都へと連れて行き、神殿の屋根の先に立たせます。そして今度は、悪魔の方も、聖書、すなわち、本日の交読文でも読みました詩編91編の言葉を持ち出してこうそそのかすのであります。「下へあなたは身を投じなさい。なぜならこう書かれているからである、すなわち、『神はその天使たちにあなたのことでお命じになるであろう、そして彼らの手で彼らはあなたを持ち上げるであろう、あなたがその足を石に向かって打ち付けることのないように』と。」これは、敬虔な信仰の英雄を主が守り導かれることを歌った詩編のことばであります。悪魔も聖書を持ち出して、しかし誤った理解によって神への従順から何とかして、私たちをも引き離そうとするのであります。正確な聖書の理解と学びを私たちは求めねばなりません。主は彼に語りかけます。「こうも書いてある、すなわち、『あなたの主なる神を試してはならない』と。」これも申命記の中で、イスラエルの民が不平をいい、神がいるのかどうか疑い、マサやメリバで水を与えるようにモーセに迫った出来事に際して、言われている言葉であります。そして、最後に、今度は、悪魔は、主を非常に高い山に連れて行きます、そして、世界の全王国とそれらの繁栄ぶり=栄光を見せます。そして彼にこう語ります。「これらすべてをあなたにあげよう、もしあなたが私にひれ伏し、ひざまずくならば」と。洗礼を受けたヨルダン川から、次第に高いところに導かれ、ここで悪魔の誘惑も最高潮に達します。主はしかし、こう答えていわれます。「サタンよ、退け。なぜならこう書かれている、すなわち、『あなたの主なる神のみを拝み、彼に仕えなさい』と。」これも申命記の言葉からの引用であります。私たちは、この世の、あるいは人間からの栄光を求めるべきではなく、神の栄光のみを求めるべきであります。これによって、ようやく、悪魔は彼を離れます。そして、み使いたちがやって来て、主に仕えていた、と本日の誘惑物語はしめくくられています。アダムは、誘惑において罪に陥り、すべての人間は死すべきものとなりましたが、それに対して、主イエスは、サタンを追い出し、天使たちによって、食事を給仕され、人類の堕罪以前の楽園を回復なさり、人間に命を与える方として、人間を破滅と神からの離反にもたらそうとする悪魔の企てを打ち砕かれたのであります。そして主は、公生涯における宣教の働きに、この後赴かれるのであります。本日の主の荒れ野での誘惑は、すでに、私たちのために、苦難のしもべとして、歩まれる主の十字架の前ぶれでありました。主は悪魔とその手下どもに対して勝利なさる生涯を十字架に至るまでここから全うされるのであります。そして私たちは、イエスに従う新しいイスラエルとして、日ごとに言葉と思いと行いによって罪を犯す弱い存在ではありますが、主の十字架への道に従い、この四旬節をみ言葉に日々新たにされながら歩みたいものであります。



2005/02/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスのご正体」(マタイ17:1~9)
マタイ17:1-9、2005・02・06、変容主日(白)
出エジプト記34:29-35、ペトロの手紙Ⅱ1:16-19

マタイ福音書17章1-9節
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。畏れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

説教「イエスのご正体」(マタイ17:1-9)
 新年の最初の主日以来、守ってきました顕現節も、本日の変容主日によってその最後の主日を迎えました。顕現節とは、前にも言いましたように、神の真実の姿が明らかになることであり、また、その遣わされた独り子主イエスが一体どういうお方であるか、その意味では、主イエスのご正体が顕される時でもあり、本日の主の変容の出来事を伝える記事は、顕現節の最後にふさわしいものでありましょう。
 しばらく、ご一緒に、本日の記事、マタイ福音書17章1節から9節に従って、主イエスがどういうお方であるのか、どういう出来事がおこったのかを考えてみたいと思います。
 それは、「6日後に」起こった出来事であります。フィリポ・カイザリアに行ってから、6日後のことであったのか、ペトロが、主イエスを「生ける神の子、メシアです」と告白してから6日後のことなのか、いつからなのか定かではありません。出エジプト記を読みますと、モーセが6日間、シナイ山にいて、7日目に神と語り合ったことがでてきます(出エジプト24章)。そのことが暗示されているのでしょうか。マルコにも「6日の後」とありますが(マルコ9章)、ルカは、「この話をしてから8日ほどたったとき」となっています(ルカ9章)。あるいは、終末的な意味を持つ仮庵祭、スコトの祭り(仮小屋の祭り)が6日にわたって祝われたことが背後にあるかもしれないと考える人もいます。マタイでは、主イエスは、新しいモーセであり、しかも、モーセをはるかにしのぐ、もっと偉大なモーセであるという考え方が一貫しており、本日の記事においても、出エジプト記の24章、34章が背景にあるということは考えられることであります。
さて、主イエスは、六日ののち、ペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネだけを伴われます、、そして、ある高い山へと導きます。それが、ペトロが信仰告白を行ったフィリポ・カイザリアから比較的近い、北方のヘルモン山であったのか、あるいは故郷ナザレに近いタボル山であったのか、それとも、別の山であったのかは、福音書記者たちにとっては関心のないことでありました。マタイにとっては、モーセが十戒などを神より賦与された、神々しい山、今もあのシナイ半島にそびえるシナイ山のことが思い出されていたことでありましょう。
 すると、見よ、彼らの前で、イエスは、神々しい形に変えられ、その顔は太陽のように輝き、その衣は、まばゆく輝いたのであります。そして見ると、彼らに、モーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていたのであります。モーセとエリヤは、旧約聖書の律法と預言者を代表する者であります。そして二人とも、天に上げられたと書かれ、あるいは信じられていた人物であります。マルコは、「エリヤがモーセと共に」見えたと書いていますが、マタイはモーセを最初に書き改めています。モーセのほうが与えた影響力がはるかに大きく、より重要な存在なのです。
 さて、ペトロはそれをみて、イエスに申し出ます。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もしあなたがお望みなら、仮小屋を三つ建てましょう。あなたに一つ、モーセに一つ、そしてエリヤのために一つ」と。どうやって、ペトロは、初めて出会ったであろう二人がモーセとエリヤであることが分かったのでしょうか。しかし、いずれにしろ、ペトロは、主イエスと旧約を代表する預言者たちを同列に位置する存在だとみなしたのです。ペトロは、彼らの見ている出来事を、できれば、できるだけ長くそのまま引きとどめて、楽しみたいと思って、仮小屋を三つ建てることを主に提案したのでしょうか。しかし、ペトロの人間的な思いでなした申し出が聞かれ、受け入れられることはありませんでした。そして、見よ、輝く雲が現れ、彼らを覆ったのであります。この彼らとは、主イエスたち三人と考えられましょう。そしてまた、見よ、雲の中からこういう声がしたのであります。もとの文では、「これは、私の子、愛する者、わたしはこれを大いに喜んでいる。これに聞きなさい。」 この出来事も、出エジプト記の臨在の幕屋に神が白雲と共にあらわれるという出エジプトの出来事が思い起こされます。主イエスは、本日礼拝の始めに交読しました詩編の2章7節や、またイザヤ書42章1節に出てくるように、神の子であり、また同時に、苦難の僕として、神に喜ばれ、気に入られている独特唯一のお方であります。  
私たちは、聖書を手にしていますが、この聖書全体が、すべて、主イエスを、メシア、受難のしもべとして、証しし、指差しているものなのであります。偉大なモーセも、天にあげられ、終わりの日にまた帰ってくると記されていたエリヤも、あるいは、預言者イザヤも、洗礼者ヨハネも、また、パウロや使徒たちもすべて、主イエスを、神の子として、また、受難と復活のキリスト、メシアとして証言するために、わたしたちのために、与えられている器にすぎません。雲の中から聞こえた声は、そのことをペトロたちにはっきりと示したのであります。彼らは、非常に恐ろしくなり、顔をひれ伏しました。すると、主イエスが近づき、彼らに触れて、言われました。「起き上がりなさい。恐れることはない。」それで、彼らが目を上げてみると、主イエスのほかにはだれも彼らは見なかったのであります。そして、彼らが山を下っていく時、主は、「今見たことを、人の子が起き上がらされる、すなわち、復活するまで、誰にも言わないように」と命じられたのであります。マルコによる福音書では、それに対して、弟子たちがその後に、「復活することとはどういうことだろうか」とか、理解できないでいる姿が記されていますが、マタイの弟子たちは、主イエスのお言葉を理解できる者として表現されています。主イエスは、この後、受難、十字架が待っていました。そしてその後、神によって、栄光の復活をなさしめられるのであります。そのときまでは、栄光に満ちた本日の主イエスの出来事・福音は、知らせることができないのであります。
この出来事は、復活後に弟子たちに主が現れた出来事を、主の生前のこの時点にまで遡らせて書かれているのに過ぎないのではないかと考えた人もいます。しかし、わたしたちは、3人の共観福音書記者たち、マルコ、マタイ、ルカによって、このように、それぞれの視点から生き生きと記録されている決定的な出来事を疑わしいことだと心配する必要はないのであります。主イエスのご正体、本当の姿が、本日の啓示を通して、明らかにされているのであります。私たちの日常生活を振り返りますならば、私たちは、あまりにも、たやすく、他人の言動や社会の中にひしめいている「我こそは真理を説く者である」といった主張によって、揺り動かされているのが、偽らざるところではないかと思います。いろいろな思想や価値観によって、生き方をぐらつかされているのが、私たちの現状ではないでしょうか。ある年老いた信徒の方は、病床のもとで国会中継が聞こえてきているので、私が、国会中継にご関心がおありですかとたずねますと、「いや、私はもうそんな理屈をこねまわしたりする生き方には関心がない。自然が一番いいよ」というふうに答えておられました。国会議員を始め、社会にはいろいろな立派な方々が大勢活躍しています。
しかし、聖書は、私たちに向かって、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と命じてやみません。「これに聞く」とは、もちろん耳を傾けることだけではなく、このお方にこそ従っていくということであります。今この礼拝に集められている方の多くは、このお方主イエスによって、見いだされ、新しい人生の道を与えられた者であります。本日はこのあと、聖餐、キリストの体とその尊い血に与かりますが、そのことを今一度確認し、主にある幸いを、周りの人々にも伝えていく器となるようにさらに豊かに用いられていきたいものであります。 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあってあなたがたの心と思いとを守るように。アーメン。
2005/02/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。