津田沼教会 牧師のメッセージ
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「選ばれた神の民として」(マタイ5:13-16)
マタイ5:13-16、2005・01・30、顕現節第5主日
イザヤ書58:1-10、コリントの信徒への手紙Ⅰ2:1-5

マタイ福音書5:13-16
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中にあるものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「選ばれた神の民として」(マタイ5:13-16)
顕現節も第5主日を迎えました。来週の主日は変容主日で、顕現節の最終主日になります。そして、私たちはその後には、四旬節、受難節に駆け足のようにして入っていくのであります。教会で用いられます色も、今週までの緑から、来週は白、その後は紫と変わっていきます。さて、顕現節も終わり近い本日与えられています福音は、マタイ福音書5章の13節から16節までの短い部分であります。それは、私たち津田沼教会にとっては、今後少なくとも1年間、掲げていきます主題聖句が含まれている箇所でもあります。いわゆる山上の説教の始まってすぐのところに位置しています。群衆を見ながら、山に上って、主イエスがついてきた弟子たちに語っているお言葉であります。最初に出てきます8つの至福、幸いな者たちが未来、終末から見て「慰められるであろう」とか、「神の子と呼ばれるであろう」、と未来形で書かれているのに対して、あなたがた、私の弟子である者たちは、こういう者である、あるいは、現在こうあるべき者であると主イエスはおっしゃられ、私たちの現在に向かって、主はお教えになられるのであります。5章11節、12節の、「あなたがた、今迫害を受けているものは幸いである」という言葉に続けて、本日の文章がまとめられています。主イエスの最初の弟子たちは、このマタイ福音書が書かれたとき、激しい迫害の中にあったでありましょう。そういう弟子たちに向かって、主イエスによって救いを見出した、しかし困難な中に置かれていたすべての弟子たちに向かって、主イエスは本日のお言葉を語られるのであります。そしてそれらの主のお言葉によって、私たち、キリスト者がどういう存在であり、また、どうあるべきかが明らかになります。その意味で、私たちを通して、わたしたちの天にいます父なる神があがめられるようになり、父なる神の存在がこの世界に明らかになるという点でこの箇所が、顕現節に選ばれているのではないでしょうか。
さて、主は、ついてきているすべての弟子たちに向かって言われます。「あなたがたは、地の塩である。しかし、塩が塩気を失ってしまったなら、何によって塩気を取り戻せようか。それはもはや何のためにも良くはなく、ただ、投げられて、人々に足で踏みつけられるだけである」、と。私たち、キリスト者は、地の塩であるといわれます。塩が塩気を失うことはあるのでしょうか。私には良くわかりません。ただ、死海から取れる塩は、三分の一くらいしか使い物になれず、そういう場合には、水分を含むとだめになる場合もあるということらしいです。普通、塩は本来ならなくすることのできない成分や働き、機能があるが、しかしそれをもしも失ったとしたら、どうしようもないことになる、と主はたとえられたのでしょう。
塩の役目とはどういったものでしょうか。主は地上の人間たちにとって、あなたがたは塩のあるべき存在だといわれます。塩は、食物の味付けに用いられます。自分自身が用いられることによって食物の味をひきたたせ、風味をもたらします。また、食物を保存したり、腐敗から防止する働きがあります。世の中にとって、キリスト者は、社会の腐敗を防ぐ存在であると主は宣言してくださっているのであります。そういう私たちが地の塩であることをやめたなら、もう何の良いところもなくなり、道端のゴミ捨て場に棄てられたゴミのようなものになると、主は警告もなさっておられます。わたしどもの生活はなかなか思うとおりにいきません。怠け心が強く、穢れた良くない行いと思いと、また弱さを持っています。けれども主は、あなたがたはわたしについてきている以上、既に地の塩としての存在である、その存在であることをやめてはならない、と励ましてくださいます。
また、塩は、ユダヤでは、神にささげる犠牲の動物や食物にもかけられたりしました。この地上、人間世界を神に向かわさせる清めの働きをも、私たちは担っているのです。
主は、続けて、「あなたがたは世の光である。山の上にできている町は、隠されていることができない」、と言われます。ユダヤの国では、町はしばしば山の上、丘の上に造られました。夜になれば、その町の光が、遠くからでも、容易に旅人たちを導いたことでありましょう。キリスト者は、そのように、見られることから逃れられない存在、人々から絶えず見られている存在です。また、主は言われます、「ランプの火をつけておいて、それを升の下に置く者はいない。そうではなく、ランプ台のうえに置くのである、そうすれば、家の中全体をそれは輝かすのである」、と。ルカによる福音書にも、同じような言葉が、出てきますが、そこでは、「家の中に入ってくる人をそのともし火が照らすのである」となっていますが、マタイは、「その火がその家の中全体を照らす」となっていて、これは、簡単な作りの当時のユダヤ人たちの家の構造によりふさわしい表現であり、ユダヤ人の世界がまず改革されねばならないことを前提としており、ルカのほうは、そのともし火のもとにやって来る異邦人たちの回心を指しているでありましょう。
さて、最後の5章16節で、主は、結論として次のようにお命じになります。「そのように、あなたがたの光を、人々の前に輝かしめよ。こうして、人々があなたがたの良い行いを見て、あなたがたの天にいます父をあがめるようになるためである。」
山上の説教でこの後出てきます7章に至るまでの、なすべき行い、あるいは主イエスの教えは、要約すれば、この5章16節の言葉によってひとまとめにできるでありましょう。
私たちが、主イエスによって選ばれて、神の民とされているのは、わたしたちが、既に神により、主イエスにより、受けている光を人々の前に輝かせ、そして、わたしたちの良い行いを彼らが見て、わたしたちの信じる天にいます父をほめたたえ、彼らがその方に栄光を帰するようになるためであります。本日の主のお言葉は、これが書かれたときから2000年近くたった現在もそのとき以上にわたしたちに向かって強く訴えるものであります。わたしたち自身の中に、生まれながらに、その光を私たちが持って生まれているというのではありません。私たちが、主イエスにつながり、その父なる神につながっているので、この光を人々に輝かせることができ、良い行いをすることができるようになるのであります。本日の特別の祈りにもありましたように、私たちは、辛苦の道を歩んでいるすべての隣人たちに少しずつでも、仕える者とならせていただきたいものであります。祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたは私たちを、あなたの民として、この世界の中から選んでくださいました。現代の世界も主イエスの当時にもまして多くの混沌と闇に覆われています。その中にあって、聖書の信仰に固く立つことができるように、私たちをみ言葉と聖霊において導いてください。そして、私たちを通して、隣人たちが、あなたをあがめるにいたる、そのような生活を成らせてください。キリストによって祈ります。
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2005/01/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「選ばれた神の民として」(マタイ5:13-16)
マタイ5:13-16、2005・01・30、顕現節第5主日
イザヤ書58:1-10、コリントの信徒への手紙Ⅰ2:1-5

マタイ福音書5:13-16
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中にあるものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「選ばれた神の民として」(マタイ5:13-16)
顕現節も第5主日を迎えました。来週の主日は変容主日で、顕現節の最終主日になります。そして、私たちはその後には、四旬節、受難節に駆け足のようにして入っていくのであります。教会で用いられます色も、今週までの緑から、来週は白、その後は紫と変わっていきます。さて、顕現節も終わり近い本日与えられています福音は、マタイ福音書5章の13節から16節までの短い部分であります。それは、私たち津田沼教会にとっては、今後少なくとも1年間、掲げていきます主題聖句が含まれている箇所でもあります。いわゆる山上の説教の始まってすぐのところに位置しています。群衆を見ながら、山に上って、主イエスがついてきた弟子たちに語っているお言葉であります。最初に出てきます8つの至福、幸いな者たちが未来、終末から見て「慰められるであろう」とか、「神の子と呼ばれるであろう」、と未来形で書かれているのに対して、あなたがた、私の弟子である者たちは、こういう者である、あるいは、現在こうあるべき者であると主イエスはおっしゃられ、私たちの現在に向かって、主はお教えになられるのであります。5章11節、12節の、「あなたがた、今迫害を受けているものは幸いである」という言葉に続けて、本日の文章がまとめられています。主イエスの最初の弟子たちは、このマタイ福音書が書かれたとき、激しい迫害の中にあったでありましょう。そういう弟子たちに向かって、主イエスによって救いを見出した、しかし困難な中に置かれていたすべての弟子たちに向かって、主イエスは本日のお言葉を語られるのであります。そしてそれらの主のお言葉によって、私たち、キリスト者がどういう存在であり、また、どうあるべきかが明らかになります。その意味で、私たちを通して、わたしたちの天にいます父なる神があがめられるようになり、父なる神の存在がこの世界に明らかになるという点でこの箇所が、顕現節に選ばれているのではないでしょうか。
さて、主は、ついてきているすべての弟子たちに向かって言われます。「あなたがたは、地の塩である。しかし、塩が塩気を失ってしまったなら、何によって塩気を取り戻せようか。それはもはや何のためにも良くはなく、ただ、投げられて、人々に足で踏みつけられるだけである」、と。私たち、キリスト者は、地の塩であるといわれます。塩が塩気を失うことはあるのでしょうか。私には良くわかりません。ただ、死海から取れる塩は、三分の一くらいしか使い物になれず、そういう場合には、水分を含むとだめになる場合もあるということらしいです。普通、塩は本来ならなくすることのできない成分や働き、機能があるが、しかしそれをもしも失ったとしたら、どうしようもないことになる、と主はたとえられたのでしょう。
塩の役目とはどういったものでしょうか。主は地上の人間たちにとって、あなたがたは塩のあるべき存在だといわれます。塩は、食物の味付けに用いられます。自分自身が用いられることによって食物の味をひきたたせ、風味をもたらします。また、食物を保存したり、腐敗から防止する働きがあります。世の中にとって、キリスト者は、社会の腐敗を防ぐ存在であると主は宣言してくださっているのであります。そういう私たちが地の塩であることをやめたなら、もう何の良いところもなくなり、道端のゴミ捨て場に棄てられたゴミのようなものになると、主は警告もなさっておられます。わたしどもの生活はなかなか思うとおりにいきません。怠け心が強く、穢れた良くない行いと思いと、また弱さを持っています。けれども主は、あなたがたはわたしについてきている以上、既に地の塩としての存在である、その存在であることをやめてはならない、と励ましてくださいます。
また、塩は、ユダヤでは、神にささげる犠牲の動物や食物にもかけられたりしました。この地上、人間世界を神に向かわさせる清めの働きをも、私たちは担っているのです。
主は、続けて、「あなたがたは世の光である。山の上にできている町は、隠されていることができない」、と言われます。ユダヤの国では、町はしばしば山の上、丘の上に造られました。夜になれば、その町の光が、遠くからでも、容易に旅人たちを導いたことでありましょう。キリスト者は、そのように、見られることから逃れられない存在、人々から絶えず見られている存在です。また、主は言われます、「ランプの火をつけておいて、それを升の下に置く者はいない。そうではなく、ランプ台のうえに置くのである、そうすれば、家の中全体をそれは輝かすのである」、と。ルカによる福音書にも、同じような言葉が、出てきますが、そこでは、「家の中に入ってくる人をそのともし火が照らすのである」となっていますが、マタイは、「その火がその家の中全体を照らす」となっていて、これは、簡単な作りの当時のユダヤ人たちの家の構造によりふさわしい表現であり、ユダヤ人の世界がまず改革されねばならないことを前提としており、ルカのほうは、そのともし火のもとにやって来る異邦人たちの回心を指しているでありましょう。
さて、最後の5章16節で、主は、結論として次のようにお命じになります。「そのように、あなたがたの光を、人々の前に輝かしめよ。こうして、人々があなたがたの良い行いを見て、あなたがたの天にいます父をあがめるようになるためである。」
山上の説教でこの後出てきます7章に至るまでの、なすべき行い、あるいは主イエスの教えは、要約すれば、この5章16節の言葉によってひとまとめにできるでありましょう。
私たちが、主イエスによって選ばれて、神の民とされているのは、わたしたちが、既に神により、主イエスにより、受けている光を人々の前に輝かせ、そして、わたしたちの良い行いを彼らが見て、わたしたちの信じる天にいます父をほめたたえ、彼らがその方に栄光を帰するようになるためであります。本日の主のお言葉は、これが書かれたときから2000年近くたった現在もそのとき以上にわたしたちに向かって強く訴えるものであります。わたしたち自身の中に、生まれながらに、その光を私たちが持って生まれているというのではありません。私たちが、主イエスにつながり、その父なる神につながっているので、この光を人々に輝かせることができ、良い行いをすることができるようになるのであります。本日の特別の祈りにもありましたように、私たちは、辛苦の道を歩んでいるすべての隣人たちに少しずつでも、仕える者とならせていただきたいものであります。祈りましょう。
天の父なる神さま。あなたは私たちを、あなたの民として、この世界の中から選んでくださいました。現代の世界も主イエスの当時にもまして多くの混沌と闇に覆われています。その中にあって、聖書の信仰に固く立つことができるように、私たちをみ言葉と聖霊において導いてください。そして、私たちを通して、隣人たちが、あなたをあがめるにいたる、そのような生活を成らせてください。キリストによって祈ります。
2005/01/30(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「さあ さあ おまかせ もう寝よう」(マタイ4:18~25)渡辺純幸先生説教
2005・01・23、顕現節第4主日(緑)
イザヤ書43:10-13、1コリント1:26-31
マタイ福音書4:18-25

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

「さあさあ おまかせ もう寝よう」(マタイ福音書4章18~25節)渡辺純幸先生説教

 晴佐久昌英神父の詩集「だいじょうぶだよ」にこんなのがあります。
  なんてしんどい一日だろう/
 人を傷つけ人に傷つけられ/
 自分で自分がイヤになる/
 そんな夜の合い言葉「さあさあ おまかせ もう寝よう」・・・・。

  なんてすてきな一生だったろう/
 いいことも悪いこともあったけど/
 すべてはきらめく宝物だった/
  そんな最期の夜の合い言葉「さあさあ おまかせ もう寝よう」・・・。

 本日の聖書は、宣教の第一歩として、イエスがガリラヤ湖畔で四人の弟子を得て、それに続いて多くの病人を癒された箇所です。弟子たちも「さあさあ おまかせ もう寝よう」となるのでしょうか。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられるときにペトロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレに出会いました。
 イエスが彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる猟師にしよう」と声をかけられると、彼らは直ちに網を捨てて従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが父と一緒に網を繕っているところに同じように声をかけられると、ペトロたちと同様に、父と舟を捨ててイエスに従いました。これが、いわゆるイエスの一番最初の弟子が生まれた出来事です。そして、イエスは弟子たちとガリラヤ地方を回り、様々な場所で福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気の人々を癒されました。イエスの評判は、ガリラヤのみならず、ユダヤ全土に広まり、イエスのもとに大勢の人々がやって来て、イエスに従ったのでした。私たちも教会の門をたたいて、イエスを救い主として崇め、自分の生涯をイエスと共に歩もうと決心した時がありました。そのことを思い起こしながら、本日の聖書をご一緒に考えてみたいと思います。
 ノートルダム聖心学園理事長の渡辺和子さんは、ご自身のことを次のように記しておられます。中学校は半ば強制的に四谷の双葉学園に入学させられたものの、渡辺さんは私服で卓球場に入ったり、不正乗車で補導されたりの好ましくない生徒と見なされていました。渡される通知簿には成績の他に「操行」の点がついており、平素の行いは優良佳の順で付けられていますが、中学一、二年生のそれは「佳」の一番悪い評価でした。
 そんな渡辺さんを案じた母は校長のシスターに暑中見舞いを出すように促し、渋々それに従いました。ところが数日後、その形ばかりの葉書に対して、「和子さん、よい夏休みを過ごして、早く学校へ戻っていらっしゃい」の返事が返ってきました。少人数の学校ゆえに渡辺さんの悪事が校長の耳に入っていないはずはない。彼女はこの一枚の葉書で、「どうでもいい私」から「どうでもよくない私」に変わったのでした。この葉書に込められた愛は、更に、その後自らもシスターになり、教職についた渡辺さんをして、名前でよばれ、受け入れられた渡辺さんは、学生一人ひとりを名前で呼び、学生からの手紙にどれ程忙しくても返事を書く人間にしてくれたと言われます。
 その恩師が三〇年程前のある朝、授業に行く途中倒れました。見舞いのため病室を訪ねた渡辺さんが見たのは、ベッドの傍らに出席簿を開いておき、ロザリオを不自由な指でつまぐっている姿でした。「どうして出席簿を病院に」といぶかる渡辺さんに、「今は、私がこの生徒たちを教えるはずの時間なの。だから、一人ずつのため、名前を呼んで祈っているのよ」。(「目にみえないけれど、大切なもの」より)
 さて、ペトロやアンデレたちがイエスの弟子になる経過はそれぞれの福音書によって異なっています。例えば、ルカでは、夜通し漁を試みたが、何ひとつ取れなかった漁師ペトロが疲労と失望とで網を洗っていると、そこにイエスが通りかかり、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」の言葉に従ってそのようにしたところ、おびただしい魚の漁に驚き、イエスに従って弟子になったというお話です。
 また、マルコ福音書は、マタイと同じ経過をたどっています。すなわち、シモンと呼ばれたペトロと兄弟のアンデレは海に網を打っているとき、またもう一方、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとは、父親と一緒に網を繕っているときでした。どちらも、自分の仕事に励んでいました。そんな彼らに、イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけて招きました。そして、シモン・ペトロとその兄弟アンデレとは、またゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、「イエスに従った」のでした。この物語は劇的というか、唐突なものを感じます。と言いますのも、まったく面識のない、見ず知らずのイエスの一言、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉で、すぐに従ったことです。多分にしてイエスの顔をじっくり見据えて、ペトロたちがイエスに従ったとは到底思えないのです。しかし彼らは躊躇することなく、即座に応答しています。聖書は多くを語ろうとはしません。シモンや他の人たちは、自分の人生にかかわることを余りにも単純に、いとも簡単に決断してイエスに従っています。それも何か魔術にでもかけられたかのようにです。何が彼らの中に起こったのでしょうか。
 聖書を見てみますと、シモン・ペトロとその兄弟アンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも同様の招きを告げると、「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」と聖書は記しています。
 この「網を捨てて」「舟と父とを残して」という彼らの動作は極めて大切なものを表しています。と言いますのは、彼らが「網を捨てる」ということは、少なくとも自分の日々の糧、自分の人生の将来を自ら手放したということです。また「舟と父を残す」という行為も、自分の財産を自ら放棄してしまうことですし、自分の肉親である父を残して来ることも、ユダヤの律法の第四の戒め、「父母を敬いなさい」に照らし合わせても誉められたことではなかったでしょう。しかし、彼らは自らそれらを手放したのでした。
 彼らが持っていた網や舟や父は、生活の手段であり、生活の手立てであり、命の糧です。これがなければ生きていくことは極めて難しいことです。何をさておき、網も舟も父も手から放すことのできない、つまり掛け替えのないものなのです。ある意味では、ペトロという存在と人格を表すほどのものでもあるのです。それほど大切なものです。
 ですから、イエスから「わたしについて来なさい」の言葉をかけられたとき、ペトロにとっては、自分の人生と何の関わりがあるのか、何の意味があるのかと、無視してもよかったのでした。しかし、彼らはそうせず、意外な方向へと歩み出しました。彼らの命の次に、いや命よりも大切な網や舟、そして親までも手放してイエスに従って行きました。つまり手放さないでしっかり握り締めていることが、彼らの確かさ、生きる保証であったにも拘らず、彼らはそれらの大切なものを、いとも簡単に手放したのでした。
 すると逆に、ここで私たちは、このペトロの姿の中に、それも「網を捨てて」「舟と父親とを残して」の中に、手放さない、捨てないという決断以上に大きな決断を見ることになります。そこには、これまでの経験や実績を放棄しても、なお余りあるそれ以上の大きなものがあるということなのでしょう。その確かさが彼らの中にあったということです。ここには、大きな飛躍があります。埋めても埋め尽くすことのできないものです。これを人は信仰と呼びます。私たちの目には不確かさに見えるものが確かさになるということなのです。
 先ほどの渡辺和子さんに届いた、「和子さん、よい夏休みを過ごして、早く学校へ戻っていらっしゃい」の返事は、「どうでもいい私」から「どうでもよくない私」に変えました。それは、名前で呼ばれ、受け入れられた渡辺さんに自分の生涯をシスターとして歩み出させるほどの大きな出会いでした。私たちが、一人ひとり自分の世界にこだわる限り、またそれを手放さない限り、悲しみと苦しみの中で、出口を見い出すことなく生きる者となるでしょう。イエスの「私について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」の言葉は、まさに、「さあさあ おまかせ もう寝よう・・・・」ということであり、自分の手の内の確かさでなく、神さまの手の中に身を任せた人生となる確かさなのです。
 私たちもまだ見ぬ自分の人生を神さまに任せて、感謝をもって歩んでまいりましょう。

 


 


2005/01/23(日) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「教会学校の案内」
2005・01・23、顕現節第4主日(緑)
イザヤ書43:10-13、1コリント1:26-31
マタイ福音書4:18-25

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、船の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

教会学校の案内
 この日は、津田沼教会の総会礼拝で、主管をしてくださっている市ヶ谷教会の渡辺純幸先生が「さあさあ おまかせ、もう寝よう」と題して本日の福音書から説教をしてくださいました。神の子、主イエスがペトロたちを弟子に召命したことの意味を告げる力強いメッセージでした。
 さて、わたしたちの津田沼教会では、教会学校を昨年の4月から始めています。教会学校としては午前9時からとしてありますが、教会学校の礼拝は9時半くらいから守っています。10時半からの主として大人の礼拝につなげるためです。小さな教会学校で、わたしたち夫婦の一人息子の小学一年生とお母さんと幼稚園の年長さんの女の子が常連といった段階です。しかし、クリスマスの時などに時々来る信徒のお孫さんや、ミッションスクールで過ごされたお母さん夫婦と二人の男の子、また、今来ている女の子のお友達が来ることもあります。
 今の子どもたちは、スポーツクラブや習い事、塾やまた、テレビなどで日曜日に教会学校に通い続けることは困難な状況にあります。
 けれども、福音の言葉は、子どもたちも必要としています。聖書に幼い時から親しみ、教会学校でのお友達と、主イエスのお言葉を聴きながら、育ち、友情とか人間関係を育むことは、わたしのそういうことの足りなかった幼少時代あるいは少年時代にかんがみても、その必要を他人事ではなく感じている昨今です。どうぞ、子どもさんを教会学校に送ってください。親御さん、ご一緒でももちろん大歓迎です。子どもたちは、正義感が強く、正しいもの、真実なものが何であるかを、本能的にキャッチします。そしてそれを求めています。聖書は、世界におけるベストセラーといわれますが、教会の門をたたき、洗礼を受けるに至る人は依然として多くはありません。しかし、聖書は確かなものであります。真実の宝が隠されている聖書にあなたの生涯を賭けてみませんか。それには、教会に行くのが一番確かです。神さまが、ご自分のことを知らせるために、教会が、主イエス・キリストの十字架と復活、またそのお語りになったお言葉を通して、与えられているからです。なお、わたしたちの津田沼教会では、毎週水曜日の聖書の学びや隔月くらいで開かれる礼拝後に集会室で持たれる「信徒の学びと交わり」が教会学校同様昨年4月から始まりました。「信徒の学びと交わり」は引退牧師の内海望先生を通してのルターについての学びなどが開かれています。毎週特に朝10時半からの水曜日の「聖書に学び祈る会」は、現在「ローマの信徒への手紙」を読み進めています。どうぞ、お気軽に礼拝をはじめ、どの集会にも教会においでください。教会の人々もあなたをお待ちしています。神さまの祝福が、あなたの上に豊かにありますように。

2005/01/23(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
説教「闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
マタイ4:12-17、2005・01・16、顕現節第3主日(緑)
アモス3:1-8、1コリント1:10-17、
マタイ福音書4章12節~17節
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
 異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」
 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

「闇に座す者に光が」(マタイ4:12-17)
 顕現節の第3主日を迎えました。顕現節とは、神のご正体が、イエス・キリストを通して明らかになるときといった時期であります。顕現主日のマタイによる福音書2:1-12は、異邦人の占星術の学者たちに、救い主の誕生が知らされ、彼らが最初に礼拝しにくる出来事でした。また、先週の福音は、主イエスがガリラヤから洗礼者ヨハネのもとに来て、へりくだられ、神のみ心に従順となられて洗礼をお受けになられた出来事でありました。
 それに続く本日の与えられているマタイ福音書は4章の12節から17節までであります。
同じ顕現節ではありますが、本日用いられている聖卓やストールの色は、先週までの白から緑に変わっています。主イエスのご正体が明らかになる意味では同じでありますが、聖霊降臨後の主日に学ばれる主イエスの生涯になされたみわざや、語られた言葉に通じる事柄でもあり、本日からしばらく変容主日に至るまで、緑に変わるのでありましょうか。
 さて、本日の出来事は、主イエスが洗礼を受けたあと、40日間荒れ野で悪魔と戦われた出来事のすぐあとに続いています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたことを耳にし、ガリラヤへと「退かれる」のであります。これは、難を逃れるという意味をも持ちますが、ここでは、そのような主観的な意味ではなく、ただ移られたというほどの意味でありましょう。紀元後29年のころに、ヘロデ・アンチパスの手によって、洗礼者ヨハネは命を落としています。ガリラヤも、ヘロデ・アンチパスの領域であったので、主が恐れて避難したということは当たっていないでありましょう。本日の箇所では、4章の17節が「その時から、」主イエスは、こうお語りになりつつ、宣べ伝え始められた。すなわち「あなたがたは、悔い改めなさい。なぜならば、天の国が近づいているからである」となっていまして、「その時から」というこの文章は、その前の節とつながるのか、「その時から」は、その後に続く18節以下とつながっているのかが問題になります。わたしたちの教会暦のペリコペーは、4章の12節から17節までの短い部分をひとまとめに考えており、「その時から」というのも、その前の節につながっていると考えられており、そのように解釈しても間違ってはいないでありましょう。
 同じ並行記事のマルコを見ますと、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』(マルコ1:14,15)となっています。マタイは、この短い2節の間に、自分が受け継いだ伝承を加えているのであります。
 洗礼者ヨハネが捕まるというのは、渡されるという言葉でもあり、それを転機として、主イエスが、天の国、天の支配を告知する時が始まった転換点となったことを示しています。そしてそれは、主ご自身の受難、すなわち、主が敵どもの手に引き渡される時まで続くのであります。
 主は、その知らせを聞くと、ガリラヤに退かれ、故郷のナザレをも後にして、カファルナウムに行ってそこに定住し、本拠とするに至るのであります。マタイは、これによって、旧約聖書、特に、イザヤ書の8章の23節から9章の1節の言葉が実現することになったと記しているのであります。そこには以下のように記されています。「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書8:23~9:1)。マタイは、あるいはそれ以前の、この預言の言葉を見出した人は、主イエスがカファルナウムに住むことによって、この預言者の言葉が、主イエスにおいて実現したことに、目を向けたのであります。
異邦人のガリラヤという言葉が出てきます。ガリラヤというのは、「周辺」「辺境」といった意味を持つ言葉だそうです。そして、その当時のユダヤ人たちはアッシリア人の侵入などにより宗教、人種なども混合していたガリラヤからは、預言者は出ないし、ましてや、メシア、救い主が現れることはないと、軽蔑していたのであります。しかし、マタイは、旧約聖書の預言をここに見出し、主イエスがカファルナウムを中心に活動なさったことを、深い神のご計画のうちにあったことだと考えたのであります。「暗闇に座す民に大いなる光が見え、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」、とマタイは引用しています。
 これは、異邦人を含めて、闇の中に座していたすべての人に、キリストの光がのぼったことを意味しています。神のご計画は、異邦人を通して救いが実現されることをマタイは、聖書を通して、わたしたちに向かっても語っています。そして「あなたがたは、悔い改めなさい。なぜなら、天の国は近づいているから」、と主は宣教の第一声をあげられました。ユダヤ人たちが軽蔑し無視していたガリラヤに主は戻られ、カファルナウムに居をすえて、ヨルダンの向こう、湖岸の東側などにも、宣教なさいました。主イエスご自身は、「イスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさい」と弟子たちをユダヤ人に向けて遣わされましたが、神のご計画は、異邦人すなわち、全世界の人々にキリストの福音をのべつたえ、すべての民を主イエスの弟子とするように教えることでありました。
 私たちは、この顕現節に、「死の陰の地」に座している私たちのもとにおいでになられた主をまことの救い主、また、今も大いなる光としていただいている者であります。最初に、ヨハネが捕らえられるという言葉は、「渡される」と言う言葉でもあり、主ご自身が受難なさる言葉でもあることを、いいましたが、それは、神さまがみ子を私たちの罪のために、死に渡されることでもあります。しかし、私たちが暗い闇の中に座しているほかなかったところに、主は顕われてくださり、私たちが新しく希望を持って歩む道を備えてくださいました。
「あなたがたは悔い改めなさい。けだし、天の国、天の支配が近づいているから」と主はわたしたちに向けて、いわば「異邦人のガリラヤ」であるわたしたちの闇と死と罪におおわれていた現実の只中へと入り込んできてくださいました。神さまによって、この一年のわたしたちの生活がすみずみまで、支配されますようにと祈りもとめたいものであります。
一言祈ります。
天の父なる神さま。
この一年の初めのときに、主イエスが、異邦人のガリラヤにやってこられ、そこに生活の本拠を定められましたことが、あなたのご計画のもとにあったことを知らされました。わたしたちもまた、闇と死の陰の地に座り込んでいるような者であります。どうぞ、わたしたちのそのような中に、今一度、愛と赦し、忍耐をもってみ子をお遣わしになってください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン






2005/01/16(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスも洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)
マタイ3:13-17、主の洗礼日(白)、2005・01・09
イザヤ書42:1-7、使徒言行録10:34-38

マタイ福音書3章13節~17節
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネはそれを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

説教「主イエスも洗礼をお受けになる」(マタイ3:13-17)
本日は主の洗礼日であります。先週私たちは、顕現主日を祝いました。本日は顕現節の第2主日でもあります。顕現節とは、わかりやすく言えば、主イエスのご正体が明らかになる時であります。そして、毎年、私たちの教会では、顕現節の第2主日に、共観福音書の中から、主イエスが洗礼をお受けになる記事を読むのであります。私たちは、主イエスが罪なきお方として生涯を送り、神の子であったことを聖書を通して知らされています。それにもかかわらず、どうして、主イエスが洗礼をお受けになられたのか、それは、福音書の書かれた昔から大きな問題として、教会において取り上げられてきました。そして、より後の福音書でありますヨハネ福音書などを見ますと、主イエスが直接洗礼をお受けになった描写や記述は見られない、あるいは、意図的に除かれているようにさえ考えることもできるのであります。それに対して、マタイ福音書は、主イエスが洗礼をお受けになった場面をより詳しく記しており、そしてまた、このときに主イエスの言われた言葉が、この福音書において、主イエスご自身が最初に発されたお言葉でもあり、重要であります。新たな年を迎えて、顕現節のこの時に、本日の日課が与えられている意味について、本日の福音書を通して、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
  私たちは既に、昨年のアドベント、教会暦の新しい一年を迎えました時に、洗礼者ヨハネが「現れて」、人々に悔い改めの洗礼を施しはじめたという、本日の箇所に先立つ箇所を与えられ、読んでいます。それに対応するかのように、本日の箇所は、主イエスがガリラヤからヨルダン川へとヨハネによって洗礼をお受けになるために、もとの文では同じ「現れる」、という言葉を使って始まっています。私たちは、それがガリラヤのナザレからであったことを、既に、クリスマスの記事を通して知っています。全ユダヤから、人々が続々と洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために集まってきていた、その中に、主イエスも現れになったのであります。主イエスが洗礼をお受けになろうとすると、ヨハネは、それをこう語りながら、妨げようとしていたというであります。「私こそ、あなたから、洗礼を受ける必要を持っていますのに、あなたが私に向かってこられるのですか。」主は答えてこう言われました。「今はこのままにさせてほしい。なぜなら、このように、すべて正しいことを行うのは、私たちにとって、ふさわしいことだからです」と。
 これは、先ほども言いましたように、マタイ福音書で、主イエスがお言葉を発された最初の言葉であります。そして、この主のお語りになった言葉が、本日の福音の日課で、最も大切な意味を持っています。ここで言われている「私たち」とは誰のことでありましょうか。会話をしている主イエスとヨハネのことでありましょうか。それとも、そこに既に集まっており、洗礼を受けに来ていた人々のことをも含むのでしょうか。それは、二人だけのことではなく、全ユダヤから、洗礼を受けに集まっていた人々をも含むのであります。そして、さらに、それはその後のキリスト教会、すなわち、今この記事を読んでいます私たちをも含むのであります。そして、「全ての正しいことを行う」とは、原文では、「すべての義を遂行する」あるいは、「完成し・実現する」ことであります。主イエスが洗礼をお受けになる意味とは、主イエスが神のご意志に従順に従われ、へりくだって、人間として神から求められている正しい行いをなされることであります。神の子であられるキリストが、いわば、私たちの受ける洗礼の模範あるいは原型となってくださるのであります。
 ヨハネは、自分より後に「より強い方」が現れて、聖霊と火とであなたがたに洗礼をお授けになると言いました。その「より強い方」が、ヨハネから、洗礼を受けようとするのを、主は「今はこのままにさせてほしい」と求められ、ヨハネはイエスの言われるままにそうするのであります。主イエスは、水から上がられるとすぐ、聖霊が、鳩のように降ってくるのを、そして、自分のほうにやって来るのを御覧になりました。そして、その時、天が彼に対して、開かれました。このところを、ルターは、アダムとエヴァのとき以来、人類が罪に陥り、塞がれていた天が、このときを境に、開かれたのである。そして今も、わたしたちに向かって、天は開かれていることをわたしたちは絶えず思い起こさなければならない、というふうなことを言っています。
 旧約聖書によって約束され、その実現が待たれてきた、父なる神、創造主なる神と私たち人間との正しい関係がこの時以来、回復されていることを、私たちも改めて、本日の主の洗礼の出来事を通して、思い起こしたいものであります。旧約聖書に記されていますなすべき人間の正しい行いが、主イエス・キリストの洗礼の出来事を通して、回復され実現されたということもできるのではないでしょうか。
 ある信徒のが、「自分はどうしても清くなることはできない」と、証言礼拝の中でぽつりと言われた言葉が今も私の心に残っています。しかし、主イエス・キリストが、私たちと同じ立場にまで、低くなり、神のご意志に従順になられ、へりくだってくださいました。マルチン・ルターは、「良い行い」とは、すべて十戒の中に記されている。しかし、わたしたちは、自分の力や努力によっては、これを行うことができないので絶望する。そして、絶望して、主イエス・キリストに依り頼まざるをえなくなり、私たちはキリストに来るのであると言っています。そのように、弱く、罪にまみれ、苦しんでいる私たちのために、主イエスは、洗礼を受けて、神への従順とへりくだりを示してくださいました。そして、そのとき、天からこういう声があったのであります。「これは、私の子、愛する者、これを私は喜ぶ。」他の共観福音書と違って、マタイは、この声が主イエスによってのみ聞かれた幻聴などではなく、周囲の人々にも聞かれた客観的な神さまによるみ子の認証・宣言の言葉であったことを記しています。この一年も神さまは、私たちが決して絶望に陥ることなく、新約・旧約それぞれの聖書に約束されている救いのみ言葉によって、励まされ、平安な道を歩むようにと招き、導いてくださっています。
祈りましょう。
 天の父なる神さま。この顕現節、そして、主の洗礼日の日曜日に、主イエスが洗礼をお受けになられた意味について共に学ぶことができまして有難うございます。この2005年の一年間の歩みをすべてあなたのみ手にゆだねます。わたしどもは、あなたの福音の宣教のために、本当に弱く欠けの多い器ではありますが、日々新たにされて、あなたの御用のために用いられるものとならせてください。この感謝と願いを、尊き主イエス・キリストのみ名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

2005/01/09(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)
マタイ2:1-12、2005・01・02、顕現主日
イザヤ書60:1-6、エフェソの信徒への手紙3:1-12、マタイ福音書2:1-12

マタイ福音書2:1-12
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。

説教「主の星に導かれて」(マタイ2:1-12)
 本日は顕現主日であります。1月6日が顕現日でありまして、1月2日から8日の間の主日が顕現主日であり、今年は1月2日の本日が顕現主日であります。12月24日のイブ礼拝のときから祝いましたクリスマスは、1月6日の顕現日の前日まで暦の上では祝ってよいようであります。そして、この顕現主日には、毎年、先ほどお読みしましたマタイによる福音書2章1節から12節が読まれます。それは、クリスマスに生まれたみ子イエスを最初に礼拝をささげたのは、ユダヤ人たちではなく、遠く東の方からやって来た異邦人であったことを覚えるものであります。
 本日の福音書の箇所について、しばらくご一緒に考えたいと思います。マタイ福音書は、本日の箇所で、ユダヤのベツレヘムで主イエスがお生まれになったのは、王ヘロデの時代であったと書き始めます。その時の詳しい状況については、マタイは何も記していません。
 ある注解書は、ルカにあるようにユダのベツレヘムで生まれた後、いったん、ナザレに帰り、再び、しばらくたってからベツレヘムに戻ってきて、そこに本日の出来事が起こったのではないかと考えているものもありますが、マタイはそのようなことには、関心がないかのようであります。主イエスがそのようにして、ヘロデ王の御世にお生まれになったとき、東方から、占星術の学者たちがエルサレムに到着して尋ねるのであります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちはその方の星を東で見たので、その方を拝みにやって来たのです。」これは、その方の星が昇るのを見たのでやって来たのですとも、読むことができます。洋の東西を問わず、偉大な人物や救世主と仰がれる人物の誕生に際しては、不思議な星が輝いたり、星同士が交合したり、天体に不思議な現象が現れたと言い伝えられています。旧約聖書の出エジプトを行ったモーセの誕生に際しても、異常な天体現象が現れたとも伝えられています。そしてそれを知ったファラオは、主イエスのときと同じような幼児虐殺を企てたとも伝えられています。ケプラーは、この天体の異常現象を紀元前7年のことではないかと計算しています。昨年末には、金星と水星が夜明け前に美しく輝いて見えました。東のほうから、主の星に導かれて、ユダヤ人の王、救世主メシアを拝みに来た占星術の学者たちは、マギという言葉が使われています。後には、マジシャン、魔法使いや占い師などの意味にも使われるようになりましたが、彼らが祭司階級のものであったのか、後の伝説のように王であったのか、現代の天文学者兼占星術の学者であったのかはよくわかりませんが、メシア待望の強かったユダヤ人たちのいたバビロニアかあるいはアラビアのあたりから来たのかもしれません。
 さて、この者たちが、到着した時、ヘロデ大王や全エルサレムの住民の反応はどうであったでしょうか。彼らは歓迎すべきはずの救い主誕生の知らせに、そろって「不安を覚えた」のであります。これは、うろたえ、混乱したという非常に強い意味の言葉であります。そこで、ヘロデは、民の祭司長や律法学者たちを呼び集め、メシアがどこで生まれているのかを知ろうとしていました。70人議会を構成する主だった者である彼らは、聖書を引用して言います。「それは、ユダのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダのベツレヘムよ、お前は、ユダの指導者たちの中で決して小さなものではない。お前の中から、指導者が現れ、私の民イスラエルを牧するであろう』と。」これは、ミカ書5章1,2節とサムエル記下5章の2節とをつないだものであります。本日はたまたま顕現主日でマタイ福音書が与えられていますが、今年の主たる福音書はマタイ福音書であります。マタイ福音書は、旧約聖書が、主イエス・キリストを通して、成就したことを強調している福音書であります。今年はマタイ福音書を中心としながら、旧約聖書にも慣れ親しむことができると期待しています。
 さて、この預言の言葉は、ダビデの生まれた町から、そしてその家系から、メシアが現れることになっているとの当時のユダヤ人たちのメシアの見方に忠実に従っているものであります。この預言の言葉を伝えたユダヤの学者たちは、しかし、決して自らその生まれたメシアを拝みにいこうとはしなかったのであります。そして今度は、ヘロデはひそかに占星術の学者たちを呼んで、主の星が昇った時期を正しく突き止めようと尋ねていました。そして彼らを送り出して言うのであります。「お前たちは出て行ってその方のことを詳しく調べてくれ。そして見出したなら、わたしにも伝えてくれ、私も拝みにいきたいから」と。そして彼らが出て行くと、その昇るのを彼らが見た星が現れ、彼らを導きました。そして、その子のいる家の真上で止まりました。彼らはそれを見て非常に大きな喜びを喜んだと、マタイは記しています。彼らが、その家の中に入ると、その子は母マリアと共におられました。それで彼らはひれ伏して拝み、宝箱あるいは、懐から、贈り物、すなわち黄金、乳香、没薬を贈ったのであります。貴重な贈り物を贈るのは、一般的に当時の中東では彼らの忠誠と服従を表すもので、それらの贈り物は、特にアラビアなどで取れる貴重なものでありましたが、後の教父やルターは、黄金は、主イエスが王であることを表し、乳香は、主が神であることを表し、没薬は、主イエスの受難と埋葬を表していると解釈しました。それもまた、間違いではなかろうと思います。
こうして彼らは、み子を礼拝した後、夢でヘロデのもとに帰るなとのお告げを受けたので別の道を通って自分たちの国に帰ったのであります。このみ子誕生の時の出来事から2000年以上もたちました。今の世界も、もし、当時のようにみ子が生まれたなら、世界の指導者、権力者は主を必ずしも歓迎はしないのではないでしょうか。しかし、主は、そのように罪にまみれたこの世界に、ついには、十字架におつきになるためにお生まれになったのであります。それでは、本日の記事を知らされているわたしたちは、どのようにして、この主をお迎えすればよいのでしょうか。異邦人であった占星術の学者たちのように、この方に礼拝をささげ、服従と忠誠を尽くして生活していくことが、わたしたちがささげうる何よりの主への贈り物ではないでしょうか。そして、わたしたちの生涯もまた、このマギたちのように、主の星によって、またみ言葉によってしっかりと導かれる一生でありたいものであります。一言お祈りします。
天の父なる神さま。新しい一年が始まりました。いろいろな困難なことやうろたえるようなつらい目に遭うこともあるかもしれません。しかし、本日の占星術の学者たちが主の星に導かれ、喜びに溢れて礼拝して帰って行ったように、どうぞ、わたしたちの歩みをもあなたが整えてください。そして、あなたの礼拝に預かることを何よりも宝とする一年を送らせてください。アーメン。




2005/01/02(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「実を結ぶ一年に」(ルカ13:6-9)
ルカ13:6-9、2005・01・01、午前11時~、新年礼拝
エレミヤ書24:1-7、ペトロの手紙Ⅰ:22-25

ルカ福音書13章6節~9節
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

「実を結ぶ一年に」(ルカ13:6-9)
皆さん、新年、あけましておめでとうございます。本日与えられていますのは、ルカ13:6-9であります。わたしは、簡単に「実を結ぶ一年に」というふうに題をつけました。   
さて、本日の福音は、主イエスがエルサレムへの十字架に向かっての旅を続ける中で、語られた譬え話であります。この部分のすぐ前には、「あなたがたも悔い改めなければ、滅びる」という警告の言葉を、ふたつの事件・出来事を通して主は語っておられます。
 本日の譬え話は、それに引き続いて、語られたものであります。「3年間も実をつけなかった、不毛のいちじくの木」の譬え話であります。
 ある人がぶどう園を作り、そこにいちじくの木をも植えたのであります。ぶどうの木も、いちじくの木も、あるいはまたオリーブの木も、イスラエルではよく栽培されていたものであります。そして、ここでは、いちじくの木は、イスラエルの民を表しているということもできるでしょう。ぶどう園の持ち主とは、父なる神さまを指しています。
 その持ち主は、ずっと、いちじくの実がなっているかどうか、見に来ていたのでありますが、一向に実がなっているのを見出しませんでした。それで、園丁に言いました。「わたしはずっと3年間、いちじくの実がなっているかどうか、やって来ているけれども、見つけたためしがない。どうして、また、この場をふさがらせておくのか。切り倒してしまいなさい。」
 それに対して、園丁はとりなしをして語るのであります。「ご主人様、もう一年待ってください。わたしが周りを掘り起こし、こやしをやって見ましょう。それで、実を結べば、結構でしょう。それでもだめなら、あなたが切り倒してください。」
 この譬えは、主イエスが私たちのために、忍耐して神さまの前にとりなしてくださっていることを示しています。主は、父なる神に今もとりなしてくださっています。主は今も現在形でとりなしくださり、父なる神に「語っておられる」のであります。
 新しい一年が本日から始まります。去年できなかったことが、皆さんもありますでしょう。わたしもいっぱいあります。
 しかし、主イエスはわたしたちが、いろいろな課題を解決してゆけるように、神の前にとりなし、見守ってくださっているのであります。少しずつでも、それぞれの課題をわたしたちも粘り強く解決していきましょう。主は、忍耐強くわたしたちを待っていてくださいます。
 昨年は、年末にもいろいろな出来事がありました。個人的にも、皆さんも多くのやり残しの問題があったかもしれません。
 新しい年を迎えました。いろいろな困難なことが今年もあるでしょう。しかし、みことばに、励まされながら、わたしたちもまた、忍耐強く、信仰生活を中心としながら、良い実を結ぶ一年にしたいと思います。
父なる神さま。
あなたは、わたしたちのそれぞれにおっている重荷や課題、また困難や困窮をご存知です。あなたとつながって、良いを結ぶ一年となりますよう、一人一人を、また、わたしたちの津田沼教会を導いてください。キリストによって祈ります。アーメン。




2005/01/01(土) 11:00:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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