津田沼教会 牧師のメッセージ
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「天使の出番」(マタイ2:13-23)
2004・12・26、降誕後主日
イザヤ63:7-9、ガラテヤ4:4-7、マタイ2:13-23

本日の福音:マタイ福音書2章13節~23節
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰ってきた。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

説教「天使の出番」 渡辺純幸牧師(主任牧師)
 2004年は、皆様にとってどんな年でしたでしょうか。楽しいことも辛いこともあったのでしょうか。
 ヒルティの「眠られぬ夜のために」の第一部の10月23日の項に、「朝、目がさめて直ぐ、今日もまた自分が負わなければならぬ十字架のことを思うと、それが自分にはあまりにも重いように思われることがしばしばあろう。・・・・・しかし、今日も我々を目覚めさせてくださった神の恩寵を思い、また神の国のために果たすべき奉仕について考えるならば、活動的な人間は、そのために自分がなすことができ、かつ許されていることがらを心に描いて、喜びの感情が湧き起こり、それが一日中持続する」とあります。
 本日の聖書のヨセフとマリア、そしてイエスの置かれた状況をみるならば、今日もまた負わねばならない十字架のことを思うはずなのにそうではないようです。
 聖書には、ヨセフとマリアとイエスのいわゆる聖家族がエジプトへ避難し、ヘロデが死ぬまでそこに留まったという記事、ヘロデが二歳以下の幼児を一人残らず殺させた記事、そしてヘロデ王が死に、治世が代わり、聖家族がまたユダヤの国に帰ってきたという三つのお話が記されています。
 クリスマスをお祝いしたその直ぐ後、生まれたばかりの救い主イエスに、彼の生涯を預言するかの如き波瀾万丈の出来事が起こるのですが、これらはみな預言者の言葉が実現するためであると聖書は告げるのです。
 このことは何を意味するのでしょうか。現代キリスト者の霊性の教師として広く世界に認められ尊敬されていたヘンリ・ナーウェン神父は、著書でこんなご自身の体験を記しています。第2次世界大戦が終わる年、父は世話をするようにと少年に子山羊を渡しました。13歳のナーウェン少年はその山羊をとてもかわいがりました。何時間も時間をかけて山羊のためにドングリを集めたり、遠くまで散歩に連れていったり、毎朝目が醒めると餌をやったり、それはそれは無二の親友のように大変かわいがりました。
 ところが、ある朝早く羊小屋に行ってみると、囲いの中は空っぽで、盗まれたのでした。神父は後にも先にもこのときほど激しく泣いたことはなかったといいます。悲しみのあまりに、両親はどう慰めてよいか分かりませんでした。戦後、何年も経って食べ物にも不自由しなくなった頃、父は神父の家で働いていた庭師が子山羊を盗んで、飢えた彼の家族を食べさせたことを話してくれました。
 父は庭師が盗んだことを知っていましたが、ナーウェン少年の悲しみを知っていながら、一度も庭師を問いただすことをしなかったのでした。ナーウェン神父は、「人を思いやる愛とは何か」を教えてくれたのだとしみじみ思うと言われます。
 さて、本日の出来事はすべて「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあります。この言葉は、本日の箇所だけでも三回も使われております。まず、ヨセフに天使が夢でエジプトへ逃げるように告げた後に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。これはホセア書11章1節の言葉であります。
 次には、ヘロデが二歳以下の男の子をことごとく殺したときにも、「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」と、エレミヤ書31章15節の言葉であります。
 ヘロデ王が死に次の代になり、ヨセフとマリア、イエスの聖家族はガリラヤの湖のそばのナザレの町に住むことになったのですが、そのことについて同じくイザヤ11章1節の言葉『彼はナザレの人と呼ばれる』が、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」とあるのです。
 本日の箇所だけではありません。クリスマスに入って際立って、この言葉が多く使われていることに気がつきます。ところで、これら預言者たちをとおして実現する出来事はどれをとっても、私たちには、極めて不思議というか納得しがたい出来事であります。
 例えば、神のみ子の誕生と言うのであれば、もっと素晴らしい出来事として、華やかでそれなりのもてなしで過ごせないものだろうかと考えるのですが、聖書は決してそのような形では語っていません。
 それどころか、私たちにとって不条理というか、あまりにも惨めで、悲しい出来事として映るのです。そしてただ「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と一言で片付けられてすべてが終わってしまうのです。
 私たちは往々にして、自分たちにとって不条理と思えるようなことを、そう簡単に受け入れることはできないものです。ましてや危険を伴うようなことは、なお受け入れることができないのです。そして人の人生を一つの歴史と考えるならば、マリアにはマリアの歴史があります。ヨセフにもヨセフの歴史があるはずです。その歴史は自分の決断で切り開き、進んで行ってもよいはずでした。そのとき私たちは自分の力で立ち、自分の力で決断し、自分の力で切り開いて行くかに見えます。
 ヨセフのように何一つ彼の肉声は聞かれず、天使のみ告げに自分の主体性を置くとき、何の意味があるかと問いたくなるかも知れません。ところがヨセフは違ったのでした。彼はこれまで何ひとつ言葉を発していません。
ただ彼の方向の決断というか、そのようなものは、いつも夢を通して、それも天使が現れて告げるのです。
 アドベントの中で、婚約していたマリアが身重になったときの苦しみの行動も、やはり夢を通しての天使の語りかけでありました。本日の聖書も同じように、ヨセフは夢の中で見た事柄を実行に移したのでした。驚くほどに、ヨセフは夢で語られたことをその通りに実行していくのです。自分の人生をマリアとイエスの歴史に組み込んで生きるのでありました。一方、マリアも突然の受胎告知から始まる不思議な出来事に対して、自分の意志や決断もあったでしょう。しかし、彼女も自分を、イエスの人生という歴史に組み込んでいくのでした。
 これがヨセフとマリアの姿でした。これはとりもなおさず、すべてを神さまに委ねた姿と言えます。ここで理解すべきことは、イエスご自身に起こることは、何も場当たり的に遭遇するのではなく、すでに神さまは、それをも含めて決断し、神の意志が全うされるという「神さまの計画」の中に組み入れられたものなのだということです。そしてその計画は、旧約時代より約束されたことだということです。預言者たちをとおして言われていたことが実現するということにおいては、どのような出来事も意味のない事柄は何一つないということでしょう。
 換言するなら、幼児虐殺、エジプトへの逃避行など極めて困難なことも、神さまのご計画はそれらをもすべて包み込んで、貫かれているということなのです。私たちには一つひとつの不思議にも思える事柄も、実は、その背後には神さまの思いと、神さまの意志が働いているということなのです。そして、それらの神さまの計画は、天の使いによって現わされるようですが、私たちには気づくことなく過ごすことが多いのかも知れません。きっとこの夢に現れる天使の声を、私たちは間違いなく聞いているのです。けれどもヨセフのように、すべてを神さまに委ねることができる人でしか神さまの声を、み心を聞くことができないのかも知れません。
 天使の出番は、まさに大変なときにこそ私たちに迫り、現れて下さっているのです。あのナーウェン神父の父が少年の神父には理解できないことを思い、時をとおして知らせる思いやりの姿は神の計画にも似て、その不条理に思えることが、実は最もよいものへと変えられていくものであることを教えています。
 それは、預言者によって語られた出来事であり、また天使のみ告げをとおして知らされる思いです。ヨセフがそうであったように、またマリアがそうであったように、私たちも自分の命も人生も神さまの中に組み込まれたとき、初めて十字架の重荷が軽くなり、神さまの恩寵を強く感じるのです。すべてを知り尽くされた神様の出番であり、天使の出番なのです。
 私たちも、迫り来る困難な出来事にも、ヒルティが「・・・・しかし、今日も我々を目覚めさせてくださった神の恩寵を思い」と、神さまに感謝したように、神さまの配剤に感謝して、2005年の新しい年を迎えたいものです。
 

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2004/12/26(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「わが魂は主をあがめる」(ルカ1:46-55)
2004・12・19、待降節第4主日
サムエル記上2:1-10、ローマの信徒への手紙2:17-29、ルカ1:46-55

本日の福音 ルカ福音書1章46節~55節
 そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。 
今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
 わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

説教「わたしの魂は主をあがめる」(ルカ1:46-55)
 本日は、クリスマス主日であります。クリスマスおめでとうございます。さて、しかしまた、本日は、待降節第4主日でもあります。正式のクリスマスは、12月24日のクリスマスイブ礼拝の時から、新年の顕現日の前の日まで、すなわち、今回は来年の1月5日までとなりますが、私たちは年末のあわただしさも考えて、少し早く、本日12月19日に、クリスマスのお祝いを兼ねて、守っているのであります。
 そして、本日与えられている待降節第4主日の福音書のカ所は、ルカ福音書1章46節から55節までの、いわゆるマグニィフィカート、あるいはマリアの賛歌と呼ばれている部分であります。これは、ラテン語の聖書でこのマリアの発した言葉が、「マグニィフィカート」という言葉で始まっているので、そのように呼ばれてきたのであります。それは、もともとは「拡大する」というような意味ですが、そこから、主なる神を「あがめる」というふうな意味になったものであります。
 本日のこの部分は、「そこで、マリアは言った」という出だしから、始まっています。その文は、ユダの山里に、マリアがエリサベトを訪ね、それに対して、エリサベトがマリアの信仰、そして、主のなさったことを高らかにほめたたえるという出来事に続いてつながっている文であります。そういうこともあって、これは、ある写本によると、またのちの教父の中でも、ある者たちは、エリサベトが、言った言葉ではないかとも考えられて、「そして、エリサベトは言った」としているものもあります。
 しかし、本日の語られている言葉の内容は、「私は主のはしためです。お言葉のとおり、私の身になりますように」と天使に語ったマリアにしてはじめて告白し、証言することのできる内容であります。その内容は、旧約聖書の詩編や本日の第一の朗読のサムエル記上2:1-10を始めとするいろいろなカ所から取られ、言わば寄せ集められて出来上がってはいますが、落ち着いた、むしろ静かなマリアにこそ帰せられる信仰の表明であります。また、このカ所は、もちろん、主イエスご降誕の前の、母となるマリアが表明したものでありますが、それは、私たちが、ただ単にクリスマスを待ち備えるために、本日選ばれているというわけではなくて、それから2000年以上も隔てた現在においても、救い主・主イエスが終わりの日に再びおいでになられる方として、その時の出来事を、これから私たちが未来に向けて備えるのにふさわしいカ所として、アドベントの第4主日の本日与えられているのであります。
 私は、救い主が自分の子として生まれることを知らされたナザレの田舎娘の、そして、大工ヨセフのいいなずけであったおとめのマリアが、従姉にもあたるユダの山里に住むエリサベトのもとを訪問し、エリサベトの歓喜と祝福に答えて、本日のマリアの抒情詩、すなわち本日のこのマグニフィカートの言葉のとおりに、一言一句その場で即座にこの通りに語ったかどうかは、わかりません。けれども、マリアの信仰とひたむきな思いがここに、このような美しい文章としてまとめあげられているという事実は疑いようがないと思うのであります。
 わずか10節の短い言葉でありますが、内容は、最初から数節ごとに4つの文章に分けられます。
 まず、最初は、1章の46節から48節であります。「わたしの魂は主をあがめます、私の霊は、救い主である神を喜びたたえます。なぜならば、主のはしための低い状態にむかって、主はかえりみてくださったからであり、なぜならば、見よ、今から後、すべての世代は、わたしを祝福された者と呼ぶでしょうから」というのであります。まず、マリアは、主がわが身になさろうとしている偉大なことを、今は恐れと低い心でもって全身で、全人格において受け止め、信じ、それのみならず、小躍りして救い主である神を喜ぶというのであります。それが、マリアが「わたしは主をあがめ、救い主である神を喜ぶ」という理由であります。マリアは、何か自分の功績や行いによって主をあがめるのではありません。とるにたりない自分をも用いて、救いをなそうとしておられる神のゆえに自分自身は喜びおどるというのであります。
 次の文章は、49節と50節であります。「なぜならば、力あるお方が大きなことを、私になさったからです。その名は、聖であり、その慈しみは、時代からまた時代へと、主を畏れるものたちに及びます」。これは、神の本質は、力ある方、聖なる方、慈悲深い方であるということを言っています。
 続いて、51節から53節であります。「主はみ腕において、力あるふるまいをなさった。また、主は、その心の傾向の思い上がった者たちを追い散らされた。彼は王座から支配者たち・主権者たちを引き降ろし、低い者たちを、高く上げられた。空腹な者たちを、良いもので満たし、富んでいる者たちを、空しい手で、追い払われた」というのであります。
 マリアは、自分が用いられて、救い主の母とされる経験を、イスラエルが見出され、用いられたあの旧約聖書の出エジプトの体験に重ねて、神、力ある方がどういう方であるのかを述べます。神の必要を感じない傲慢な者を、主はみ腕でもって追い散らされるというのであります。
そして、自慢する者と謙遜な者、支配者たちと卑しく低い者、富める者と貧しい者を主はやがて、逆転なさるというのであります。これらの言葉は、もとの文では、過去形で書かれていますが、それは、未来においてそうなるということを先取りして言っており、メシアが来られる時、もう始まりつつある新時代にそうなるという信仰を表明しているのであります。
 そして、最後の4番目が54節と55節であります。「彼、すなわち力ある方は、しもべイスラエルをお助けになった、そして、憐れみを思い出された。それはちょうど、主が私たちの父祖たちに向かって語られたとおり、アブラハムに対して、またその子孫に対して、とこしえにそうである」とマリアは、自分に示された出来事から信仰を告白しているのであります。マリアが選ばれたこと、そして、それは、アブラハムとその子孫に対して、あるいはしもべダビデとその末に対して、約束されていた慈しみであり、また、当時も圧迫されていた主のしもべ、イスラエルの民に対して約束されていたものでありました。神がなさったこと、また、なさることは、決して単なる気まぐれや偶然ではなくて、永遠の昔から、永遠の未来にまで、神がご計画になっている事であります。そして、本日のマリアが信仰を表明した、今から2000年以上も前のこの言葉、歌は、2000年を隔てた現在の私たち、教会に集う者たちが同じように主が来られるのを待つのにふさわしい歌でもあります。聖書によって約束されている主が再び来られるという信仰を、私たちもまた、マリアの本日の厳粛な信仰の告白を通して、受け継いでいくようにと招かれているのであります。現在、時は、クリスマスを目前にひかえています。本日は、主の再来の信仰を確認するアドベントの時でありますが、来たる12月24日のイブ礼拝からは、2000年も前に現実に私たちの罪のために十字架につくためにお生まれになった主イエス・キリストの出来事を正式に祝うクリスマスに入ります。少し早くはありますが、クリスマスに生まれる主をも、本日マリアの歌に重ねあわせて喜び迎えたいと思います。一言祈ります。
天の父なる神さま。アドベントのローソクにも4本とも火がともされ、本日はクリスマスの祝いをも兼ねた礼拝を共にしています。私たちのために主は命を捨てるためにおいでくださり、それによって私たちはあなたの愛を知りました。そしてあなたの救いの約束は今もなお厳として続いています。どうぞこの一年も、マリアと共にあなたを全身全霊であがめまつる日々とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。
2004/12/19(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
教会のホームページ出来ました
クリスマスがもうすぐ目の前ですね。
街はもうクリスマス一色です。

教会のホームページがようやくできました。
いろいろな集会案内もありますが、毎週日曜日のメッセージ(説教)も、少し短めにして、ここに載せていくことが出来ればと思っています。

どうぞ、時々、のぞきに来てみてくださいね。
2004/12/16(木) 18:11:03| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
主の道を備える
マタイ3:1-12、2004・12・05、待降節第2主日
イザヤ書11:1-10、ローマの信徒への手紙15:4-13、
マタイ福音書3:1-12
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
  その道筋をまっすぐにせよ。』」
 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 ヨハネは、ファリサイア派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

「主の道を備える」(マタイ3:1-12)(2004・12・05)
本日は待降節第2主日であります。私たちは、待降節第4主日には、クリスマスも兼ねて祝うわけであります。今から2000年ほども、前に来られ、ベツレヘムでお生まれになり、飼い葉おけに寝かされた主イエスのご降誕を祝うわけであります。しかし、待降節そのものは、再び来たりたもう終末の主イエスを覚える時であります。待降節と日本語では言われていますけれども、アドベントといいますのは、「到来する」という意味であります。その主が再びおいでになられると約束されている教会暦の一年のはじめの第2主日に与えられています福音のカ所は、マタイ福音書3章の1節から12節までであります。主イエスがメシアとしてこの世界に公生涯において、登場なさる前に、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けるという場面が、マタイ福音書では、主イエスの誕生物語のあとに、30年ほどを隔てていきなり始まっているのであります。アドベント、わたしたちのもとに再び来られるメシアについて考えますこの時期に、ここのカ所が与えられている意味について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
本日のカ所は、「そのころ」、すなわち「それらの日々において」、洗礼者ヨハネが荒れ野においてこう語りつつ、宣べ伝えながら到来する、という言葉で始まっています。先ほどもいいましたように、主イエスの家族がガリラヤに引きこもってから、30年近くも空白があった後、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を荒れ野において、そしてヨルダン川において、人々に授けるという出来事が起こるのであります。これは、旧約聖書のゼカリヤ書3:5において、言われていたように、メシアの来る前に、エリヤが再来するという預言が成就したのであります。本日の福音書は、続けてこう書かれています。これは、預言者イザヤを通してこう語られていた、その言われていた人である。すなわち、「荒れ野において叫ぶ者の声。あなたがたは主の道を備えよ。その道筋をまっすぐにせよ」と。これは、もともとは、バビロン捕囚において、イスラエルへの、また、エルサレムへの帰還を預言した言葉でありましたでしょう。しかし、マタイや他の福音書記者たちは、メシアの到来に備えるべき言葉として、ヨハネの言葉を通して、この言葉が主イエス・キリストにおいて実現したと信じたのであります。洗礼者ヨハネは、こう言って人々に呼びかけるのであります。「悔い改めよ、なぜなら、天の国は近づいているから。」この悔い改めるというのは、単なる心の持ち方の転換というよりも、誠実な悔い改めにふさわしい生活をすることであります。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯をし、その食物は、いなごと、野蜜であったと記されています。ヨハネは、ユダの丘の町で祭司ザカリヤの息子として生まれ、クムラン教団あるいは、エッセネ派のもとで、成長し、その中から、悔い改めの洗礼を授けるようになったのかもしれません。非常な人気が巻き起こったことを歴史家のヨセフスなどが記しています。しかし、マタイは、そして他の福音書記者たちも、洗礼者ヨハネは、主の道備えをする者、メシアの到来に備えての準備の洗礼を授けた者として、はっきりとその役割を区別しています。
エルサレム、全ユダヤ、ヨルダン川のすべての近隣から人々が、ヨハネから洗礼を受けるためにやってきていた、そして自分たちの罪を告白しながら彼によって洗礼を受けていたと、マタイは記します。ヨハネはファリサイ派やサドカイ派のものたちの大勢が、彼の洗礼を受けにやってきているのを見ていいます。「マムシの子らよ、迫っている神の怒りから逃れられると誰が教えたのか。それゆえ、悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちはアブラハムを父として持っていると自分たちの中で言おうとも考えるな。なぜなら、御神は、これらの石ころからでも、アブラハムに子たちをもうけることがおできになるからだ」。
ユダヤ人であり、宗教的リーダーであることがそのまま救いにつながるのではなく、神のご意志によって、救いに与かる者を神はご自由にお与えになるというのであります。
さらに、洗礼者ヨハネは、厳しい警告を彼らに向かって語ります。「斧が、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は切り倒され、火に投げ込まれる。私の後に来られる方は、私よりも力があり、私はその方のサンダルをお脱がせするにも値しない。私は水で悔い改めへと洗礼を授けているが、その方は、聖霊と火において洗礼を授けられるであろう。そして、手に箕を持って、脱穀場をきれいにし、あるいは、脱穀したものをきれいにしとも読めますが、そして、穀物は蔵に収め、籾殻は、燃え尽きない火で焼き払われるであろう」と厳しい警告を発しているのであります。これは、よき実を結ぶものは、神の国に入れられ、そうでない者は、裁きのもとにおかれる。あるいは、前者は、永遠の命にあずかり、後者は、永遠の滅びに定められるという厳しい言葉であります。
ヨハネは、自分の授けている洗礼は、メシアに備えての準備的なものにすぎない、その方の授ける洗礼は、聖霊と火における洗礼である、と言いました。わたしたち教会に集っています方の多くは、そのメシアの洗礼、キリストの洗礼を受けているものであります。神の霊を注がれて、洗礼を受けているものでありますが、一方で火という裁きをも知らされている者であります。しかし、キリストが、わたしたちに仕える方として、そして、十字架についてくださる方としておいでになられて、わたしたちはそのような裁きから解き放たれているのであります。火は精錬し、ものを清める働きがあります。わたしたちも、一方で罪赦されて、神との正しい関係をキリストによって回復されているのでありますが、また一方では日ごとに言葉と行いと思いとによって多くの罪を犯し続ける弱い存在でもあります。そのような私たちのところに、主メシアの側からやってきてくださることに、思いをはせるのがアドベントのこの時であります。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を授けながら、メシアによる聖霊と火との洗礼を示しながら、2000年後の今も、私たちが再び主が来られるのに備えて、主をお迎えするのにふさわしい、主キリストの十字架の死に応える誠実な悔い改めの生活、主の洗礼を受けた者にふさわしい生活を、この一年、このアドベントの時から始めていきたいものであります。一言祈ります。
天の父なる神さま。あなたが、あなたの方から、主キリストを私たちのところに再び来させてくださいます。私たちは、自分たちではどうすることもできない罪や弱さを身にまとっています。しかし、あなたがわたしたちが動くよりも前に、先にその苦しんでいる私たちのもとに来てくださいます。そのあなたに応答する生活をなさせてください。アーメン。
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