津田沼教会 牧師のメッセージ
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「死に打ち勝たれた主イエス」(ルカ24:1-12)
ルカ福音書第24章1節-12節、2016年3月27日、復活祭聖餐礼拝(典礼色―白―)、出エジプト記第15章1節-11節、コリントの信徒への手紙一第15章21節-28節、讃美唱118/1(詩編第118編14節-24節)

ルカによる福音書第24章1節-12節
 
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地は、どの福音書も、また顔を伏せると、二人は言った・「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事を驚きながら家に帰った。


説教「死に打ち勝たれた主イエス」(ルカ24:1-12)

 ルカ福音書24章は、3つの部分に分けることができます。今日の個所と、来週の主日のエマオ途上の出来事と、そして残りの24章36節以下であります。
 次第次第に、この24章は高まりを見せていきます。
 今日の個所では、主イエスが、すなわち、ご復活の主イエス自身が、その体でもって現れて、弟子たちによって見られるというところにまでは行きません。
 しかも、ルカ福音書では、主のご復活の出来事が主のご復活の出来事が、イースターの日、その丸一日で起こっているのであります。
 主イエスの体が納められた墓が空であったという不思議な出来事が、今日の部分では記されています。
 すなわち、主イエスは、体をもって死者たちのうちから、起き上がらされたということであります。
 主が復活された時、どのような模様であったかは、どの福音書も、また、パウロの手紙も、関心はなく、しかし、復活の体をもって死者の中から起き上がらされた、復活させられた者の内の初穂となられたのであります。
 私たちは、安息日からの一日目、今の日曜日に当たる、この主の日に、起き上がらされたのであります。
 その日のごく早く、「夜明け前の深みに」この出来事が起こっているのであります。これは、神が奇跡をなさるときのは、出エジプトのときにも、「朝早く」であり、神の介入は夜明けの時にしばしば起こっています。
 女たちは、香料を持って、先生の遺体に塗り、丁重に葬るためにやって来るのであります。
 墓を塞いでいた大きな石は、既に転がしてありました。その墓穴の中で女(の弟子)たちは主のご遺体がなく、途方に暮れている。
 私たちが葬りをするとき、しばしば途方に暮れます。女たちもそうでありました。ところが、二人の人がまばゆい、稲光のように輝く衣を着て、そばに立ち、彼女たちは正気を失ったようになり、地に顔をつけて恐れおののくのであります。
 二人の天使は、なぜ死人たちと共に、生きておられる方を捜すのか。ここにはおられない。その方は生きておられる。かつて、彼がガリラヤで語られたことを想起しなさい。
 すなわち、人の子は、罪深い人間どもの手に渡され、十字架につけられ、三日目に起き上がると語られていたことをと。
 彼女らは、走って、弟子たち11人とその一緒の者たちのところに引き返すのであります。
 そして、弟子たちにそれらのことを伝えたのでありますが、弟子たちにはそれが馬鹿げたことのように思われ、信じることを拒み続けるのであります。
 しかし、彼女たちの伝達によって、ペトロは墓へやって来て、中をのぞいて亜麻布だけを見るのです。
 そして、彼は不思議に思いながら、引き返すのであります。
 女たちもそのときに、既に主の御復活を信じていたかどうかは分かりません。そして、信じないでいる弟子たちの中から、あのペトロはただ一人、墓にまで訪ね不思議に思いながら戻って来るのであります。
 死者たちの中にはもはや、主イエスはおられないで、予告されていたとおりに、罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、死者の中からの初穂としておきあがらされたのであります。
 死者の中に主を求め、途方に暮れてしまう私たちのところへ、二人のみ使いを通し、さらには、女たちを通して、次第次第に復活の主がご自身のほうから復活を告げてこられるのであります。
 死が、すでに乗り越えられ、主は今も生きて働いておられるのであります。アーメン。
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2016/03/27(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「主イエスとともに歩むために」(ルカ19:28-48)
ルカ福音書第19章28節-48節、2016年3月20日、枝の主日聖餐礼拝(典礼色―紫―)、ゼカリヤ書第9章9節-10節、フィリピの信徒への手紙第2章6節-11節、讃美唱24/1(詩編第24編1節-6節)

ルカによる福音書第19章28節-48節
 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
 「主の名によって来られる方、王に、
 祝福があるように。
 天には平和、
 いと高きところには栄光。」
 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
 『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話しに聞き入っていたからである。

 説教「主イエスと共に歩むために」(ルカ19:28-48)

 池上彰さんという方は、毎日新聞の論説委員をも担っているジャーナリストであります。かつてNHK教員テレビで子供向けの小学生新聞といった番組で長らく、子供たちとも世界や、日本社会を少しでもよく知るために、その番組の中心を担って取り組まれていたのを思い出します。
 その人が、分かりやすく、毎日新聞で、世界の動向について、キリスト教がようやく西方教会の代表であるフランスシコ法王と東方教会の正教会のトップが、キューバで分裂以来始めて、会談をし仲直りをするという紹介記事を書いていました。
 その中で、そもそも、キリスト教というのは、ナザレのイエスが十字架刑にかけられて、なくなった後になって、弟子たちが、イエスこそ、救世主であったことに気づき、弟子たちが広めたのが、キリスト教であると、紹介していました。
 この言い方は、ある面では、客観的で、分かりやすく、間違いとは必ずしも言えませんが、そのように単純なものではないのであります。
 それは、旧約聖書に約束され、預言者たちによって預言されていた救い主メシアが、主イエスのであり、主が神の独り子であったにもかかわらず、人となられて、飼い葉おけでマリアとヨセフのもとにお生まれになり、神の国を宣教し、その1年から3年ののちに、エルサレムに十字架におかかりになるために、旅をされ、ユダヤ教の指導者や、時の権力者、ポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇られ、今も父の右に座しておられるお方であるとの信仰に根ざしているのであります。
 さて、今日は、いよいよ受難週に入った日曜日、枝の主日となりました。長かったレントの最後の主日に与えられている福音は、ルカ福音書19:18以下であります。しかし、その個所が19章の終わりまで、長く読まれる点が、アドベント第1主日とは、少し異なっています。
 これは、主イエスのご受難、十字架に、更にその後の主イエスの御復活と昇天へと、このあと、すぐつながっていく記事として与えられているからであります。
 今日の第1朗読も、第2朗読も、主イエスのエルサレム入城と主のご受難と死に関わる、それに相応しい個所が与えられています。すなわち、まことの王であるお方が、子ろばに乗ってお出でになる、そして、その方は心低き、謙られた王としてエルサレムにお入りになるのであります。
 また、レントの間、福音の朗読前に歌われてきましたように、第2の朗読では、キリスト賛歌の部分が選ばれており、私たちの主は、己を低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、み旨に従われたとの個所が読まれたのであります。
 いずれも、今日の福音、ルカ19:28-48の記事につながっている。すなわち、私の、そして、あなたのために、主イエスは今日のふるまい、又お言葉を語っておられるのであります。
 ルカ9:51からは、エルサレムで待ち受けている十字架を目指して、「旅空を歩むイエス」として記されています。
 また、ルカ福音書は、神殿から始まり神殿で終わっております。私たちの礼拝が正されなければならないのであります。
 そして、今日の記事は、「主イエスはこのように語られてから」と始まっています。このような話とは、すぐ前の、「ムナの譬え」のことです。10人の僕に1ムナ、100ドラクメ、100日分の当時の賃金に当たる額を預けて、ある高貴な人が遠いところへ旅に出られる。それは、終わりの日に再びお出でになられる主イエスのことを指しているのであります。
一人ひとりが、主イエスの弟子として、1ムナずつ預けられている。それは、主から受けているみ言葉であると言えましょう。私たちはそれをどう生かすのか。しかし、その人が王位に就くのを望まなかった市民たちがいた。それは、エルサレムで待ち受けているファリサイ派の者たちや、主イエスを拒む者たちを指しています。
  その者たちをどうするのかと、主イエスはここに示されています。
 主イエスは、こうして、オリーブ山に向かって近づかれると、二人を使いに出し、まだ誰も乗ったことのない、つながれている子ろばをといて、引いて来させるために行かせます。
 彼が指示したとおりに事は運んでいく。「主がお入用になる」とつながれた子ろばを引いてくる。ぶどうの木につながれた子ろばと創世記に出てくる記事の実現であり、また、ゼカリヤ書9:8の柔和でへりくだった、子ろばに乗ってお出でになる方であり、その足もとに服が敷かれて王位に就くとの旧約記事に出てくることによって、示されている、王としてのキリストの預言の成就であります。
 さらには、このお方がエルサレムの都が見えたときに、涙を流され、あなたへの訪れの日を知らなかったエルサレムのために、エレミヤのように泣かれるのであります。
 イエスの宣教によって、神の救いが来たことを、あなたたちが知っていたならと嘆かれるのであります。
 エルサレムの弟子たちからなる大勢が皆、歓呼の叫び声を上げ始めます。「主のみなによってこられる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところに神の栄光があるように」と。彼らは知らずして、この時起ころうとしていた出来事をほめたたえ、主がなさった力あるみ業を賛美していたのであります。
 主イエスはまもなく、十字架に上げられ、苦しまれ、殺され、死んで陰府にくだり、三日目に死人のうちからよみがえられ、天ののぼり父なる神の右の座に疲れるのであります。その救いの成就を、期せずして弟子たちは歌っていたのであります。
 クリスマスに、ベツレヘムのまぶねの中でお生まれになった喜び、地における平和ではもはやなく、天での平和の喜びを、弟子たちが歌っていたのであります。
 それをやめさせようとしたファリサイ派に向かって、今度は主イエスは、彼らが黙れば石が叫び出すであろうと、それを拒まれないのであります。
 そして、エルサレム神殿の崩壊を預言し、また、最後に、エルサレム神殿の宮清めをなさり、エルサレム神殿こそは、すべての人の祈りの家と呼ばれようとのイザヤ書の預言をあげられ、神殿をあるべきものへとただそうとされる。
 私たちは、この日の主イエスの出来事を思い返しながら、今日から今日から受難週に入っていくのであります。

 祈りましょう。

 天の父なる神様。
 あなたの御用のために仕える僕とならせてください。主イエスの十字架の死を見上げつつ、そのあとに来る主のご復活の秘儀を悟る心の目を開いてください。わたしのために、あなたのために、主が嘆かれ、苦しまれ、お進みになる十字架の道を、今年もまた深く知ることができますように。そして、あなたから預かっているみ言葉を地に空しく埋めておくことがありませんように。そして、次週の復活祭の礼拝を喜びと感謝を持って迎えることができ、一日一日の戦い、苦しみ、また罪との戦いに打ち勝っていくことができまうように助けて下さい。キリストのみ名によって。
           アーメン。
2016/03/20(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「ぶどう園の主人」(ルカ20:9-19)柴田安子神学生
ルカ福音書第20章9節-19節、2016年3月13日、四旬節第5主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第43章16節-28節、フィリピの信徒への手紙第3章5節-11節、讃美唱28(詩編第28編1節-9節)

ルカによる福音書第20章9節-19節

 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。』
 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。




説教「ぶどう園の主人」(ルカ20:9-19)柴田安子神学生

 本日は、この受難節にふさわしい聖書個所をご一緒に学びたいと思います。新約聖書の中には、ぶどう園やぶどうの木を譬えにした話が幾つか登場します。その中でもこの物語は、イスラエルの歴史を表していると言われています。
 ぶどう園の主人は、私たちを想像された神様のことを指します。神はかつてイスラエルの民を創造され、彼らを選ばれて深く愛されたことは、旧約聖書に記されています。
 しかし彼らがエジプトの地に移り住むようになって久しい頃、神は彼らの悲鳴のような叫びを聞かれたのです。そこで、奴隷としてエジプトで重い労働を強いられたイスラエルの民に、神は、モーセという名の預言者を遣わして、彼らを苦境の中から導き出されました。「葦の海の奇跡」です。それからエジプトを出ると、彼らは四十年間荒れ野をさまよい歩きながらも、神はマナやうずらの肉を彼らに与えて養われ、慈しまれました。
 やがて神は、ご自身が先に約束されていた乳と蜜の流れるカナンの地を約束どおりに彼らに与えられました。そして、なおも彼らを守るため、神は彼らと契約を交わされました。
 彼らを愛し続けられたからです。しかし、神と彼らのこうした良い関係は長続きしませんでした。イスラエルの民は神との契約をやがて忘れ、自分たちのやりたい放題に暮らして、神を裏切っていったのです。
 イスラエルの人々は、何よりも神の命じられた一番大切なこと、つまり神への礼拝を正しく守ることを怠ったのです。私たちがこうして守る礼拝です。主なる神のみを礼拝するという最も重要な約束を彼らは忘れ、異なる神を信じる者たちと交わりました。また、金の雄牛やバアル等の偶像礼拝をし、他の神々を拝みました。旧約聖書には、イスラエルの民が神に背を向け、神を裏切ってしまった話がたくさん登場します。
 それでも、神はご自身から背いてしまったこの民を愛されていたので、預言者を何人も送っては神のご意志を伝え、あるいは敢えて彼らの苦難の中に置いて試練を加えることを通して、神の方へ立ち帰るようにと願われたのです。それが、紀元前587年頃のバビロン捕囚という歴史の中の出来事でした。イスラエルの民は、バビロン捕囚によって彼ら自身のアイデンティティの中心であったエルサレムの神殿を、またユダの国をも、バビロニア王国という敵の大国に奪われてしまいました。
 イスラエル人たちは、土地・家・財産や家族を奪われ、望まない異国に地に連れて行かれて、礼拝を捧げることすら出来ず、バビロニア人に仕えなければなりませんでした。
 しかしやがて時が来ると、ペルシャのキュロス王を通して、奇跡的にこうした苦難もイスラエルの民から消えうせ、エルサレムの都は彼ら自身の手に返されます。ペルシャ国王によって神殿の再建が許されたのです。
 こうして見ると、イスラエルの歴史は、神の慈しみ、イスラエルの民の神への離反、神の厳しい試練、そして神の赦しの繰り返しです。しかし、彼らの罪は遂に終わることがなかったのです。
 ところが、新約聖書の時代に入ると、髪は旧約聖書を通して語り続けられたメシア、救世主、つまり神ご自身の御子、主イエス・キリストを私たちの下に送られるのです。
 それは、先ほどお読みした聖書個所にあったぶどう園の最愛の息子のことなのです。
 さて、本日のぶどう園の譬えをご一緒に考えたいと思います。先ずぶどうの木について話します。ぶどうは蔓性の落葉低木果樹です。その栽培の歴史は紀元前3000年頃まで遡るとと言われています。ぶどうは温帯の植物で、水はけがよく、日当たりのよい土地を好み、イスラエルで育つヨーロッパの品種は、乾燥地を好みます。主イエスの伝道されたガリラヤ地方は、今日もぶどうの産地として知られています。高度な地形と低い気温が良い葡萄を作り出します。ぶどうを原料としたワインは、ローマ帝国時代には帝国中に広まったと言われています。
 ぶどう園の仕事は結構大変なのです。ぶどうをご家庭で栽培される方も居られるかもしれません。苗から植えて、肥料をやり、剪定、そして房の形や味を整えるために花の段階で切り落としたり、間引いたり、病害虫を駆除しなければなりません。ぶどうの生産量はとても多いのです。日本では生食用として利用されることが多いですが、世界全体では、その殆どがワインの原料として利用され、特にワインは、飲料水の少ない地域では水代わりでした。
 さて、ルカ福音書20章のぶどう園の主人は、農夫たちに畑を任すと、暫くの間長旅に出てしまいました。主人は農夫たちを信用し、彼らにぶどう園を委ねたのです。今日の譬えに登場する農夫たちは、主人の留守中であっても、8月から10月の間の収穫期に向けてきつい労働をたくさん強いられたのは事実でしょう。ぶどう園を任されて、主人の留守を預かる、とはそういうことです。しかし、農夫たちは主人にどのような思いを抱いていたのでしょうか。彼らは自分たちが信用されている喜びを感じ取っていたでしょうか。それともただ過酷な労働に対して、不満を抱きながら、留守を続ける主人を恨めしく思っていたのでしょうか。
 やがて、ぶどう園いっぱいのぶどうの枝に、実はたわわに成り、収穫の秋が訪れます。10節にある「収穫の時」の「時」という語は、カイロスという原語に当たります。カイロスとは、「チャンス」とか「大切な時、決定的な瞬間」を表します。収穫の時は、まさにチャンスの時、決定的な時で、二度と訪れることのない、一回限りの時なのです。
 それは質的な時間であるとも言えます。このカイロスに対して、クロノスという時間もあり、これは量的な時間です。ぶどう園の主人が長旅で留守をしたのは、クロノスの時間でした。
 主人はまだ旅の途中であったので、収穫の絶好のチャンスに、主人は僕を農夫たちのもとへ送りました。収穫を終えたら、実ったぶどうの一部を僕は持ち帰って来るだろう、と主人は期待しました。しかし、結果は無残でした。10節には「農夫たちは僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した」と書かれています。ただ追い返したのではありません。複数の農夫たちが僕に手を掛け、袋叩きにしたのです。
 主人はこれに懲りずに、11節で「ほかの僕」をまた送ります。でも、農夫たちはやはり二人目の僕をも「袋叩きにし、侮辱して何も持たせずに追い返した」のです。袋叩きでは終わらず、「侮辱し」、「何も持たせず追い返した」のです。さらに主人は「三人目の僕」を送ります。僕を送る事、三度。主人の農夫たちへの諦め切れない思いや、とても前向きな姿勢が現れています。しかし残念ながら、農夫たちは三人目の僕をも「傷を負わせ」た上に「ほうり出した」のでした。僕たちの受けた損害は、後に続くほど段々酷くなっています。この僕たちは、イスラエルの歴史の預言者たちを表している、と考えられています。
 しかし、ぶどう園の主人は諦めません。よせば良いのに、今度は最愛の息子を農夫たちのもとに送ります。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と、彼らを信じたのです。それは人間的には賢明な選択とは言えないかもしれません。しかし、そんなことは主人でなければ分かりません。主人の胸中にはどんな思いがあるのか、我々普通の人間には分からないのです。ぶどう園の主人は、彼の愛する息子に信頼の全てを懸けて、息子を農夫たちに差し出したのではないでしょうか。痛みを伴う行為でありながら、最後まで農夫たちを信じ続けようとされたのです。
 果たして農夫たちはどう対応したのでしょう。ぶどう園の主人の息子を見ると、彼らは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と言って、「息子をぶどう園の外にほうり出し、さらに殺してしまった」のです
 ぶどう園で雇われた農夫たちは、跡取りになる主人の息子を、まるでぶどう園には属さないかの如く、ぶどう園の外に放りだしてしまったのです。何が偉くて農夫たちは、雇い主の息子をぶどう園の外にほうり出せたのでしょうか。ぶどう園の主人の留守の間に雇われていた彼らは、ただ一時的に魔が指しただけで、雇い主の土地や財産を貪ろうとしたのでしょうか。これを悪と呼ばなければ、何と呼べば良いのでしょう。
 モーセを通して、神はイスラエルに約束して『十戒』を渡しました。その第十戒には「汝、貪るなかれ」という戒めがあります。彼らはこれ明らかに侵しています。我々はすべて貪る心を持っています。わたしにも、あなたにも。それは罪です。だから主は十戒に示されたのです。農夫たちは主人のものを貪る者たちです。主人の意志を知りつつそれに逆らい、貪りながら、主人の愛する独り子に手を掛け、殺してしまうのです。何と恐ろしい、むごい態度でしょう。
 9節にあるように、主イエスはこのぶどう園の譬えを民衆を前に話されました。彼らのこの譬えへの反応は、16節「そんなことがあってはなりません」という返答に示されているとおり、とんでもないことだ、有ってはならないことだ、という意味が含まれています。
 しかし、この譬えを聞いていた者たちの中に、当時の「祭司長たちや律法学者、長老たちも居た」と、今日の箇所の少し前、20章の冒頭から書かれています。主イエスは民衆に話しかけながら、同時に律法学者や祭司長たちにもこの譬えを話され、それは彼らユダヤ教の指導者たちへの「当てつけ」であったと説明されています。彼らはまず地位や権力に貪欲であったため、自らの正しさのみを主張し続け、ぶどう園の農夫たちと同様に、ぶどう園の主人である神に立ち帰り、過ちを告白することが出来なかったのです。しかし、過ちや罪の先にあるのは滅びです。
 息子の死を知ったぶどう園の主人は、もう旅を続けるわけには行きません。16節では、ぶどう園に「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と書かれています。この「ぶどう園をほかの人たちに与える」とは、何を意味するのでしょうか。それは、ユダヤ人たちから、異邦人である私たちへも、恵みが与えられたことを意味するのでしょう。救い主イエスの福音は、異邦人である私たちにも届けられているのです。
 最初にお伝えしたイスラエルの歴史に、話を戻しましょう。創造主であられる神は、神ご自身が、神に逆らい続けてきたイスラエルの民と、和解を望まれておられるのです。私たちは、神の御子である、主イエスの御降誕をクリスマスに祝います。しかし、その御降誕の意味は、私たちが誕生日を祝うのとはかなり違います。何故なら、主イエスがこの世に来られたのは、私たちを救うためだったからです。私たちのためのその救いは、主イエスご自身が命を投げ出すことを通してのみ叶ったのです。
 今私たちは、受難節という時を過ごしています。主が十字架に向かわれるそのご受難を覚える時です。主イエスは私たちの罪の贖いのためにこの世に来て下さったからです。
 主イエスが、17節で引用された言葉、「家を建てる者の捨てた石、隅の親石」は、詩編の言葉ですが、イザヤ書にも示されています。それは、主イエスの決定的であったお働きを表しています。主イエスを喩えた「隅の親石」は、そこらにある石ころではありません。主イエスは尊い、貴重な石です。しかし、その石の上に落ちれば、誰でも打ち砕かれます。またその石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされる怖さをも持っています。裁かれる石でもあるのです。さらに、その石は神さまの建物を完成させることのできる石でもあるのです。
 このぶどう園の主人と農夫の譬えは、主イエスがエルサレムに入られてから語られたものです。主イエスは、まさに十字架につけられるその道を歩まれています。受難節のこの主日にこの箇所をご一緒に読めたことは、まことに意義深いことです。何故なら、主は私たちを救って下さるため、農夫たちの貪りのような罪に、権力や地位への貪欲に命を落として滅びることのないように、この世に来て下さり、ご自身を捧げて下さったのです。私たちが神に立ち帰ることが出来るために。そして、滅びではなく永遠の命へと歩んでいくために。

ご一緒に祈りましょう。

 主なる、父なる神様。あなたの御名を賛美します。イスラエルの歴史を通して、あなたがイスラエルの民に如何に多くの慈しみを注がれたかを、改めて知らされました。
 しかし、私たちはあまりにも弱く、あなたに背く毎日を繰り返しています。主よ、私たちを憐れんでください。そして御子の御贖いによって、私たちをお赦しください。
 間もなく受難週が訪れます。私たちの救いのためにご自身を捧げ、十字架に向かわれた主イエスの御苦しみを忘れることがありませんように。
 また、一昨日は東日本大震災の五周年を迎えました。三重苦となってしまったこの災害を忘れることがありませんように。苦境のうちにまだ嘆き悲しんでおられる方々を一日も早く癒してくださいますように。私たちに怠りや心の鈍さがあれば、どうぞお示しください。家族や友人、住まいを失われた悲しみや苦しみを少しでも共に分かち、希望へと繋ぐために、仕えることができますように。
 主イエスの御名により、祈ります。アーメン。



2016/03/13(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「あなたも立ち直れる」(ルカ15:11-32)
ルカ福音書第15章11節-32節、2016年3月6日、四旬節第4主日礼拝、(典礼色―紫―)、イザヤ書第12章1節-6節、コリントの信徒への手紙一第5章1節-8節、讃美唱137(詩編第137編1節-6節a)

ルカによる福音書第15章11節-32節

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近く来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
 
説教「あなたも立ち直れる」(ルカ15:11-32)

先週は、実をならさないいちじくの木を、主イエスが手を入れて、父なる神にもう一年待ってくださるようにとりなしていてくださるという悔い改めの必要を説いた記事でありました。
今日は、それでは、悔い改めとは実際どういうことであるのかを、説くものです。今日の旧約聖書の第1朗読のイザヤ書代2章1節から6節は、バビロン捕囚から戻ってくる喜び、そして、主なる神をほめたたえる記事であります。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」(イザヤ書代12章3節)と預言者イザヤはいつの日か到来するバビロン捕囚からの帰還の日を約束しています。

今日の讃美唱の詩編第137編1節から6節は、それとは反対に、捕囚の地にあって、シオンの神を賛美してみよと異郷の徒に迫られても、主の歌を、シオンの歌を異郷の地でどうして歌うことができようかとこの詩人は嘆いています。もしも、私があなたを忘れるなら、私の右手はなえるがよいとまで歌っています。これもまた、イスラエルの民の神告白であります。

また、今日の信徒への手紙一の第5章1節から8節は、使徒書の朗読は基本的には通読となっており、必ずしも福音の日課とつながる訳ではありませんが、あなた方の中から、古いパン種を取りのぞき、悪い習慣がはびこらないように注意するようにとのパウロの勧めであり、今日の「放蕩息子の譬え」といみじくもつながりがあると見ることができます。「キリストがわたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではないか」と混じり気のない信仰生活を勧めています。

そして、今日の福音は、ルカ福音書第15章11節から32節であります。今はレントであり、聖卓などで使われる布の色は紫であります。これは、主イエスの十字架上で流された血を表すと共に、悔い改めを表すために使われている色でもあります。

このレントの時に、主イエスのなさった譬えの中でも最も有名なものの一つであります「放蕩息子の譬え」がなぜ読まれるのでしょうか。しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、今日のこのルカ福音書の有名な譬えは、主イエスが徴税人や罪人たちと食事を共にするのを見て、つぶやくファリサイ派や律法学者たちに向けて、それに答えて説かれたものであります。そのために、主がなさった3つの譬えの中に位置しています。

最初は、99匹の大切な羊をあとに残して見失われた1匹の羊を探し当てて喜ぶ羊飼いの譬えであり、2つ目は10枚の銀貨を持っていて、そのうちの1枚をなくして、家の中中を探して見出した女の譬えであります。それに続けて主イエスは今日の譬え話を続けて語られるのであります。

「放蕩息子の譬え」として、名高い譬え話でありますが、しかし、これは、二人の「放蕩息子」といってもよい兄、弟の物語であり、更にもっと言えば、その二人へ惜しむことのない愛を向け続ける父親の譬え話と言えるのであります。そして、それは言うまでもなく、私たちの父なる神の愛を教える譬え話であります。

二人の息子をある人が持っておりました。その若い方が申し出てきて、自分の相続財産を分けてほしいといい、父親は寛大にもその弟の言い分を聞いてやり、その分を分けてやります。弟は兄の半分、すなわち、全体の3分の1を、その当時は受けたようであります。生前贈与でありますから、それよりももっと少なかったかもしれません。
そして、数日にして、弟は金に換え、遠くの地方へ、遠い国へと旅立つのであります。弟は独身のようですので20歳前後であったかもしれません。次男坊というのは、いつの時代でも自由を求めて、生活するのを好むものかもしれません。私にも兄がいますが、この放蕩息子の譬えを読みますと、つくづく自分は弟のほうだなあと感じさせられます。

さて彼は、その財産を思うままに使い、放縦に暮らしてしまいます。そして、使い果たした時、悪いことは重なるもので、ひどい飢饉が起こり、食にも事欠き、その地方の市民のもとに身を寄せ、雇われ、その人は彼を野へと送り出し、豚飼いをさせます。彼はその食べるイナゴ豆からでも腹を満たしたいと願いますが、だれも与えようとはしませんでした。
ユダヤ人たちにとって、豚はひずめは分かれているが反芻しないので、食べてはならない食物となっていました。あるユダヤ教のラビの言葉には、豚を食べることとギリシャ哲学にかまけることを戒める教えが残っています。
ですから、この弟は、ユダヤ人にとって、最低のみじめな状態に落ちていると言っていることになります。

しかしそのとき、彼は自分に立ち返って、すなわち、正気に帰って、自分に言うのです。私の父のもとではあんなに大勢の雇われた者たちがパンで満ち足りている。そうだ、父のもとに戻って、こう言おう。私は、天に対しても、あなたの前でも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる値打ちはありません。雇い人たちのうちの一人にしてくださいと。  
そして、彼は、そのまま、立ち上がって、帰郷の旅に出て行きます。それが大事なことであります。
ところが、まだ彼が遠く離れているときに、父は彼を見出し、憐れに思って駆け出し、「その首に向かって倒れて接吻した」と言う風に書かれています。
息子は、帰郷の途上にもこう言おうと繰り返し考えていたとおり、自分の罪を打ち明けます。私は、天に対し、あなたの前でも罪を犯しました。もはや、息子と呼ばれる資格はありませんと。人に対する罪も、どんな罪も結局は神に対する罪なのであります。

しかし、父は、その後は言わせないのです。そして、すぐに僕たちに命じて、急いで極上の長い服を持って来るように言いつけ、サンダルをはかせ、手に指輪をいれてやります。これは、ファラオによって、王の次に地位に引き上げられたヨセフの物語を思い起こさせます。雇い人の一人としてどころか、自分の息子として以上のもてなしぶりです。さらに、命じて肥えた子牛を屠らせます。そして、食べて祝おうと、祝宴を始めます。
この息子は、死んでいたのに、再び生きるようになり、失われていたのに、見出されたのだから、そうするのは当たり前だと言うのです。私たちが罪によって死んで、失われた存在になっていたのを、主イエスが十字架にかかられて、新しく生きる者とされた、その十字架を通しての、父の愛が、ここに垣間見れるのではないでしょうか。

さて、ところが、野で働いていた兄は、戻って来つつあるとき、家のほうからその音楽と踊りのざわめきを聞き、それは何なのか、召使の一人を呼び出して聞き出します。
音楽という言葉は、シンフォニーというもとの言葉で、鳴り響く笛の音や踊り、手を打ち喜ぶ祭りのような様子・異変に、兄は戸惑い、尋ねるのです。
すると、召使は、あなたの弟さんが無事に戻って来られました。それで、父君が子牛を屠り、祝っているのですと伝えます。兄は怒って、中へ入ろうとはしません。それを聞きつけた父が出てきて、なだめますが、聞き入れません。この言葉は、慰めるという意味の言葉でもあります。

兄は父に、あなたに私は、奴隷のように長年仕え、一度も命令に背いたことはありません。なのに、一度だって、友達と祝うために子山羊さえも与えてくれたことは一度もありません。ところが、あなたのあの息子が娼婦たちと金を使い果たして戻ってくると子牛を屠って祝宴をお始めになると、弟のことをくさしています。
しかし、父は言います。すべて私のものはあなたのものである。あなたは、私とずっと共にいる。しかし、あなたの弟は、死んでいたのに、生きるようになり、いなくなり、滅びかけていたのに、見出された。私たちが喜び祝うのは当たり前ではないかと。

この後、兄は、父がなだめるのを聞き入れて、家の中に入り、共に喜び祝ったのかどうかは記されていません。それは、私たちが、考えるべき問いとして、残されているのです。ただ、兄もまた、父の家で喜び仕えるように今も招かれていることだけは確かです。

レンブラントが放蕩息子を迎えた絵がいつくかあるようです。その中で、ヘンリー・ナウエンの「放蕩息子の帰郷」と言う本の表紙に用いられているレンブラントの絵があります。
そのやつれて年老いた父は、ボロをまとい、張り裂けたサンダルで帰郷して来て、その膝元に跪く弟に悲痛な面持ちで対しています。ところが、それを、軽蔑の眼差しで見ている兄二人が描かれ、その奥にはだれか分からない人物の顔も影のように映っています。あるいは、これを描いたレンブラント自身を表しているのかもしれません。

弟は、悔い改めて戻ってきました。しかし、その悔い改めの告白を言い終わらぬ前から、父は、迎え入れ、歓迎し、即座に祝宴を開いて喜ぶのです。ところが、働きの場から戻ってきた兄は、それを喜ぶことが出来ず、怒りを治めることができません。兄は、父と共にいて、仕えていましたが、奴隷としての苦役として、そうしていたのに過ぎず、好き放題をして、滅びかかって戻ってきた弟を赦すことはできず、ましてや、共に喜ぶことが出来ないのです。

この兄は、これが直接語りかけられた律法学者やファリサイ派のみならず、ユダヤ人一般であり、弟は、異邦人であった我々かもしれません。しかし、放蕩息子とは、実は父に喜んで仕えてはいなかった兄もある意味では同じであると言えましょう。しかし、父なる神は、そのいずれに対しても、惜しむことのない慈しみを持って、憐れみを示しておられます。

このレントのとき、主なる神にすべての人が立ち返ることを、主はお望みです。滅びから、救いに入れられる喜びを、その終わりの日の祝宴でもある聖餐を通して主と共に喜び、十字架にかけられて、その体と血とによって、罪から解き放たれ、まことの自由を与えられている幸いを感謝しましょう。今日の父親に優って、その独り子をも、十字架におかけになって、私たちの罪を担って下さった神のまことの愛に、心を向け合いたいものです。
祈りましょう。
天の父なる神さま。レントの深まるこの時期に、十字架におかかりになろうとしている主イエスが、今日の譬えを語ってくださいました。私たちが罪に滅びることをあなたは、決してお望みではなく、そこから、我に立ち返ることを、あなたは今も何にもまして願っておられます。あなたのもとに、急ぎ立ち帰って、あなたに喜び仕える者とならせてください。残されたレントの時を、主の十字架を見上げて黙想し、霊肉ともに強められた生活をすることができますように助けてください。キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
2016/03/06(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神への方向転換」(ルカ13:1-9)
ルカ福音書第13章1節-9節、2016年2月28日、四旬節第3主日礼拝、(典礼色―紫―)、出エジプト記第3章1節-15節、コリントの信徒への手紙一第10章1節-13節、讃美唱126(詩編第126編1節-6節)

ルカによる福音書第13章1節-9節

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えて置き、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



説教「神への方向転換」(ルカ13:1-9)


今、私どもは、レントの時期を過ごしております。教会暦で用いています色は、紫ですが、これは、キリストの十字架で流される血を表すと共に、私たちに求められている悔い改めを表すものであります。

さて、今日、与えられました第1の日課は、出エジプト記3:1-15であります。イスラエルの民の叫び声を聞いた神が、出エジプトをなさせるために、羊飼いをしていたモーセを召しだす記事であります。民にどういえばいいのか分からないモーセに、神は、「私はある、私はあるという者だと言いいなさい」と答えられるのであります。

この意味は、神は私たちと共にいて、私たちを生かし、力づける方であり、そうなろうとする者になられるお方であり、欲されるとおりになられる自由な神だということであります。出エジプトの出来事は、主なる神の欲された出来事であり、そして、それは、罪から解き放とうとなさる十字架の主イエスを遣わされる父なる神へとつながるのであります。
 
さて、今日の福音は、ルカ13:1-9であります。主イエスは9:51から、エルサレムへと十字架に向かう旅空を歩んでおられます。そして、ルカ福音書12章からは、終わりの日の裁きに関わって、主は語られておられます。

12章の終わりでは、時を見分けることを促しており、あなたを訴える人と行く人は、裁判官に渡される前に一刻も早くその人と仲直りするようにと命じておられます。

で、その時に、起こった出来事として、今日の記事は置かれています。ガラテヤ人が、ピラトによって、生贄の血と混ぜられたことを、ある者たちが来て伝えます。主は、そのガラテヤ人たちが他のガリラヤ人たち以上に罪深い者と成ったと思うのか。よく言っておくが、あなた方も悔い改めねば、皆同じように滅びるとお答えになります。

この悔い改めとはメタノイアといい、これは、心を入れ替えると言う意味ですが、むしろ、生活を改革することであり、神に向かって方向転換することであります。

主は続けて、エルサレムでシロアムにおける塔が倒れて、つぶされて死んだ18人は、すべてのエルサレムに住んでいるもの以上に罪の負い目ある者と成ったとあなた方は思うのか。いいや、あなた方も悔い改めねば、彼らと同じように、皆滅びると言われます。

罪の結果として不幸に遭うのか、ヨブ記などではそのような一般的な考え方が見られます。しかし、主は、他人の不幸や災難、故意によるものであれ、事故死であれ、他人の死を見て、自分の家の改革へと招かれていることを、すなわち、主イエスのご到来・現在において、神の国の説教において、時に適ったわが身の生活の改革をするようにとの招きであると知るように、私たちに訴えておられるのであります。

そして、そのことを、示すために、次の譬えをお語りになります。ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、それから3年実がなっているかどうかを見に来続けたが何も見出さなかった。それで、園丁になぜ、そんな木にこの地を無駄使いさせているのか、切り倒せと言います。

すると、園丁は、御主人様、来年までこのままにさせてください。周りを掘って肥やしをやってみます。それで、実がなったら結構です。それでもだめなら、あなたが切り倒してもかまいませんと。無償でただ恵みにより、私たちの引延ばす罪は忍耐強く改革するように、忍耐強く主によって手を施され、赦されて、待たれています。このレントの時、そのような、先延ばしして実を結ばない罪の生活から180度方向転換させて頂きましょう。
アーメン。                       







2016/02/28(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
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